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ピラカンサ -剪定って素晴らしい(後編)- [庭木]

生意気にも一応前回から続いてます。
願わくば先日の記事をお読みいただいた上で読んでください。
てか、そうでないとかなり頭のおかしい人みたいになるので・・・って前回から見ても十分おかしい?
そ、そんなの関係ねぇ!・・・はい、すいません。

で続き。

かくしてスズメバチが服に着地した私は、クールを装いつつも心拍数は跳ね上がっていた。
前門のピラカンサ・後門の蚊!泣きっ面にスズメバチ!!

そんな中で私が選び出した答え、それはそのままスズメバチ氏を着けておくことだった。
なんかもう顔に妙な触覚。蚊が何匹か着いている。
でもいいさ。もう吸血なんて小さな損失だ。
そこを気にせずクリアーした私はスズメバチと蚊をくっつけながら静かに脚立を下りる。

だがもうあの日はそういう日だったと思うしかない。
ゆっくり足を下段に下ろした途端、脚立が更にバランスを崩した。
「ヴ!」
なんかもう五十音にない声。

脚立は左に倒れようとした。しかし私は脚立上で思い切り右に身体を傾けている。
もはや筋力なしでは重心を支えきれない状態へと陥る。
無理矢理ピラカンサとは逆の向きに力を注がないと、つまりニュートラルな状態になってしまえば100%倒れる状態になってしまった。

プルプルと震える私。
スズメバチ氏にとってはちょっとした地震だろう。
・・いや、この小刻みの振動がスズメバチに私からの「敵意」と解釈されないだろうか!?
だとしたら脅威。私はこんなに和を望む人間なのに。生き物みんなと仲良くしたいのに!

窮地に陥った人間がした行為は実に単純明快なものだった。
「お、お母さん、お母さーーーん!!!!」

久しぶりに母親を純粋な思いで呼んだ。
こんなに切なる思いで母を呼んだのは小学校の頃おもらしをしたとき以来じゃないだろうか。
幼児期の素直な気持ちに近い。単純に私は母性を求めたのだ。

とっさに近くで洗濯物を干していた母親がやってくる。
流石に生まれてからの付き合い、子供の鬼気迫る様子を肌で感じたのだろう。
「ど、どうしたの!?」

「な、なんとかしてくれ~!!」
かつて学生時代論理派で知れた私の姿はもうなかった。
ただ何の説明も具体的な事態打開の提案もなく、ただただ単純に救いを求めた。

母はグイと手で全体重を掛け脚立の傾きを修正し、早く降りるよう言った。
「で、でもスズメバチが・・・」
「そんなもん、あんたがサッと脚立から降りて走って振り切れるでしょう!」
もうその意見が正しいとか正しくないとか、そんな冷静な判断は出来なかった。
耳に入ってきた言葉を純粋に鵜呑みし、脚立から素早く降りて、全速力で茂みから出、見渡しの良い庭の中央に躍り出た。

どうもスズメバチはいないようだった。私は一息ついた。
と、直ぐに後ろを振り返る。
「母は!?」
もしやスズメバチ氏に殺られて? ギャーーー!!?

そんな心配をよそに母は茂みの中からのんびり歩いてきた。なにやってんだか、と怪訝そうな顔で。
私は胸を撫で下ろした。

かくして私はピラカンサのトゲによって身体中が穴だらけになることも、スズメバチに刺され致命的な負傷を負うこともなく生還した。
顔は痒いけれどこれも生き延びたからこそ・・・嗚呼生きているって素晴らしい!

しかしふと考えると、この一見くだらない剪定のドタバタにも「自然」の論理が成立していたことに気付いた。

自分の枝を切ろうとする人間に対して、トゲという武器で抵抗したピラカンサ。
身動きの取れない人間の血を狙った蚊。
花色と誤認し人間の黄色いシャツに飛来したスズメバチ。
見栄えが悪いからとピラカンサの枝を切ろうとした人間。

この中で生きるため以外の行為をしていたのは誰か。
そう人間だけだ。
「長い枝が伸びていたら庭が格好悪くなっちゃうから」という理由だけでピラカンサの身体を傷つけようとしたのだ。
他の連中は必死だ。
当たり前だ。自分を守るため、食事を得るため皆必死だ。
考えようによっては蚊もスズメバチも住処を与えてもらっている植物を守るために共同戦線を張った、とも言えるのではないか。

そう思えば、甘っちょろい覚悟で枝を切ろうとした私が退散させられても然るべきなのかもしれない。
生きるため死んでも良いくらいの気で枝を切ろうとしなければ彼らに対して失礼なのかもしれない。

ただ唯一の救いは、退散させられた人間の方にも、母が子を守ったという「自然」の論理があったことだった。

「脚立の安定が悪くて私がトゲだらけの樹に倒れそうになった話」。
ただこの中にも、見方によっては地球に生きる生物たちの生き様が存在しているような気がした。

・・・ああ
最後に一言。
お母さんありがとう。お誕生日おめでとう。


ピラカンサ -剪定って素晴らしい(前編)- [庭木]

そろそろ庭木の剪定の時期である。
剪定とは簡単に言えば「枝の管理」。
春~夏の間に生長して伸びすぎた枝、込み合っている枝など、要するに樹の格好を乱す枝を切って整理する作業である。

我が家ではもう庭木の剪定を始めている。
「もう」と言うのも、本来はこの作業は完全に落葉してから行う作業であり、まだ早いのだ。
ただ我が家の場合、後に多量の梨の樹の剪定が控えているのでちょっとフライング気味だが早々と始めてしまう。

そんなわけなので我が庭の選定は大分進んでおり、今日は「ピラカンサ」の剪定を始めた。

まだまだ葉も緑だし実も鈴なりに成っているが・・・すまない!、と作業を始める。

この樹こんな可愛らしい実を付けているが、恐ろしいことに枝の先端に鋭いトゲを持つ。

勿論実を鳥や獣から守るための進化なのだろうが、こういう樹の剪定はたまったもんじゃない。
特に細かい枝が生えた込み合った部分をカットするときは地獄だ。
慣れないうちは出血は当たり前、いやいや慣れても気を抜くと手や指をグサッいく。

背も高く、脚立を用いて上部の枝は切らねばならない。
「めんどくさいヤツだなぁ・・・」と思いながら、4M弱はある脚立を最上段近くまで上がりトゲを避けつつ枝を切っていた。

すると蚊が顔の周りに集まり始めた。丁度茂みのような場所なので藪蚊もまだ多く居る。
「プ~ン」とあの嫌な羽音。
(ええい、うっとおしい!)と心の中で叫び、鋏を持った手を振るう。
すると「グラリ」と脚立が傾く。地面はぬかるみのある場所だたので三脚のバランスが崩れたようだ。

「うわっ!」
寸でのところで上手く体重移動でバランスを取り、何とか倒れずに済む。
だが「何とか」。斜めに傾いた妙な格好。あと少しでも重心がずれれば倒れかねない。
しかも不幸なことに倒れる方向は、あのトゲだらけのピラカンサの方。
「あ、穴だらけになってまう!」と何故かニセ関西弁で叫ぶ。

静かに静かにバランスを取りながら降りるしかない。
ゆっくりと脚立を降りようとする私。しかしそこに迫るは茂みの蚊の群れ。

イラッ!・・・しかし落ち着け。
冷静に考えればどちらが損かと考えれば「穴だらけ>かゆい」という不等式が成り立つ。
かゆいのはヤダ。しかしここは彼らに血を分けてやろうという寛容な気持ちで望もうではないか。
結局「穴だらけになったとき多量に出血する量>蚊の吸血量」だ。
痛みの量・失う血の量、これは合理的に考えて蚊にさされた方が良いのではないか。
蚊だって喜ぶし、私も身体に多量の穴が開かない。一石二鳥だ!!

私は冷静に今考えると明らかに頭のおかしい合理性に納得し、蚊にさされながら静かに脚立を下り始めた。
ただ不幸なことは続くものである。
「ブーン」力強い羽音と共にスズメバチがやってきた。

「ギャーーー!!」普段なら叫んだろう。
ただその時の私は先述の通り妙な冷静さがあった。

生物で「生きるため以外に自分の力を使うのは人間だけ」と言われる。
食を取るため、また我が身を守るため、そのためにしか他の動物は自分の持つ力を使わないのである。

この静かに顔を蚊に刺されながら静かに脚立を下りようとする私、はスズメバチにとって「敵」か?
いやいや少なくとも味方ではないものの、害を与える存在では決して無い。
即ち、私はスズメバチ氏の飛行を恐れることはないのだ。
(攻撃はしない、静かにしていよう、スズメバチ?あぁ関係ない関係ない
今風に言えば「そんなの関係ねぇ?」 ふっ余裕だ。)

しかし不幸は重なった。
私の着ているシャツが今日に限って何故か黄色だったのだ。
虫には好む色があり、蜂は花の色で多い黄色を好む傾向がある。
何で私は今日に限って高校時代に買った原色のシャツを着ているのだろう。わからない。
かくしてスズメバチ氏は私の背中に止まった。

つづく

※つづいていいものだろうか・・・


紅葉と落葉 -泣き虫社長の英断・奇跡の復活劇- [植物の生態]

そろそろ本州も紅葉の季節が近づいてきた。
赤や黄色といった葉のコントラストが冬の到来を感じさせる時期である。
ただそれらの色づいた葉々は程なくして落葉し、木々は葉という衣を脱いだ寂しい姿になる。
何故、木は落葉するのだろうか。

「冬が来たから葉っぱが落ちた」という因果関係は、子供の頃から私たちの頭に当たり前のように刷り込まれているので、疑問に思ったことすら無い人もいる。
恐らく理科や生物といった授業で学んではいるのだろうが、正直興味がない話なんて耳を素通りだ。

実は落葉は「木の耐寒性を上げる」ことに一役買っている。

「え、葉っぱ落ちたら裸で寒くなっちゃうじゃん!」
と言う人の感性を私は大好きなのだが、生理的に言うと実は葉を落とした方が良い。

葉っぱは光合成をして栄養をつくる場所。
春~秋までせっせせっせと植物のからだをつくるエネルギーを生産する。
そのエネルギーは枝や根を伸ばしたり、花を咲かせたりすることに使われる。
だからこそ大切な葉っぱクンたちなのだが、元を辿れば「枝」がなければ葉っぱは存在し得ない。
さらに元を辿れば「幹」がなければ枝は存在し得ない。
「枝葉末節」ということわざもあるが、要するに木の本体があってこそ枝や葉があるという関係なのだ。

日本の冬は寒い。木はそれを耐えなければならない。
そのために葉は、冬が近づくと自分達をつくっている栄養分を分解して、木本体に送り込むのだ。
それによって木本体は耐寒性をつける。

葉たち:
「私たちはいいです。所詮末端の社員ですから・・・
でも社長は生き延びてください! 社長が健在ならば、必ずやわが社は復活します!!」

幹:
「お、お前達!!(TT)」

まぁ分解されたクロロフィルが幹や根などの貯蔵組織に転流し樹液等の凝固点降下が起きる
その過程で葉に残された不要物のアントシアニンやカロテノイドが赤や黄色の色を放つ
・・・って理屈なんだが、そんなこと言っちゃ味気ない。

葉の日本人的な自己犠牲の精神なのである。
だからこそ美しくも儚い落葉を、直ぐ散る桜の花と同様に日本人は多分に愛する。

さて結局大幅リストラによって従業員の「葉」達を解雇してしまった「幹」社長であるが、春になり景気(気候)が良くなってくると雇用に積極的になり、また葉を大量に呼び込む。
そしてその木はまた新緑を纏い、日光を浴び、幹を太らせ枝を伸ばすのであった・・・。

幹:
「見ろ、お前ら・・・我が社は見事復活を果たしたぞ!!!(TT)」

語り継ぐ 人もなく 吹きすさぶ 風の中へ~♪
プロジェ●トX
「泣き虫社長、奇跡の復活 ~冬を乗り切れ!~」


ツワブキ -人はあだ名を何故付けられるのか- [花]

かつて私は「ツワブキ」という花の名をずっと覚えられずにいた。
何故かどうしても覚えられなかった。理由は全くわからない。
しかしある日突然覚えることが出来た。
何故か?
その話を今回は書きたいと思う。

閑話休題
貴方の子供の頃のあだ名は何だった?

飲みに行ったときの他愛も無い話題の一つじゃないだろうか。
「何そのあだ名!」「へ、どうしてそうなったの?」「あーわかるわかる!」
人によっては思い出したくない話かもしれないが、他人の人となりを知るにあたり意外と良いネタだったりする。
同時にそれを知ることで益々他人に愛着が湧いたりもする。

あだ名・愛称・ニックネームetc、これらは他者との交流にあたり結構な役割を果たす。
何故あだ名のような別称が他者に好まれるか。
私は個人的には「自分達が名付け親になる感」が生まれるからではないかと思う。

考えてみれば「中学校のときのあだ名」「高校のときのあだ名」「バイト先のあだ名」等、人生の生活ステージごとにあだ名というものはそれぞれ別に付けられている気がする。
何故あだ名がステージごとに違うのか、と言えば「その時間その場所にいる自分」に「その時間その場所を共有している仲間たち」が名前をつけているからである。
一緒に居る仲間に自分達で名を付けてあげることで、その名前を持つ人間に皆一層の愛情を注ぐのである。

ちょっと言い方は悪いかもしれないが、ペットのような感覚。
ペットは家にやってきた時点では別段何も呼称の無い「犬」という生き物。
それに家族みんなで、「ジョン」とか「タロウ」とか名づけて愛でる。
これにあだ名をつけるという行為は近いものがあるように思うのだ。

例えば山田太郎という人がいたとする。
元々ある「山田太郎」という親が付けた名前でなく、クラスというグループ内で考えられた名前で呼ぶ。
例えば「リチャード」とか!
それによって何だか地味だった山田太郎という存在もキラリと輝く人気者に化けたりする。

「おいリチャード!」

あら、何だか格好良い。気品がありそう。なんだか英国貴族の次男坊みたい。
登校は爺が運転するクラッシックカー。いつも正門前に乗り付ける。みたいな。
でも、ま、実際は「山田太郎」なんですけど。
家は地元の小中学校の制服とか体操着扱ってる20坪くらいのスポーツショップなんですけど。
3つ上の兄貴はヤンキーなんですけど。
先生に「お前の兄貴には苦労させられたぜ」とか言われたりして。
でもリチャード。
うん、帳消し。

話は逸れたが要するに、既存の誰かが付けた名前でなく、他の「愛称」のようなもので何かを呼ぶことは、その何かと親近感を生むのに大いに役立つ手段のように思う。
それほど近しくなかった友達との距離を縮めるのに役立つかもしれない。
さほど興味のなかったものに興味を持てるようになるかもしれない。
馴染みのなかった植物も身近に感じられるようになるかもしれない。

で、ツワブキもそうして愛称をつけることで私は覚えた。
ツワブキ。
ツワブキ。
ツワブキサトシ。
ツマブキサトシ。
妻夫木聡。

・・・あ!

私の中で彼女は「サトシ」である。



マリーゴールド -物事の本質- [花]

またも御無沙汰である。
しかしまぁ今回の更新を皮切りにこのブログも再開していきたいと思うので、恒常的に閲覧されている人など居ないと思うのだが、今後ともよろしくお願いしたい次第である。

そんなことを言い出すのも、やっと今年の梨の収穫が終了したためだ。

3ヶ月弱、1日の休みも無く、一般企業ならば労基法違反でアウトだろ!ぐらいの身体の酷使をしつつも、まぁこんなもんだと小さな頃からわかっているし、免疫はあったので何とか今年も無事乗り越えた。

そんな長期にわたり労働し、疲弊しきった人間が「はい、明日休み」と言われたらどうするか?
これが意外で、元気に外出していくものである(勿論人によって違うんだろうけど)。

出かけた先は日本橋界隈。
ちょっと千疋屋総本店に用があり、ついでにあのへんをプラプラしてみようと思ったのだ。
ま、得てして「ついで」が本当は楽しみにしている方だったりするわけだが。

随分畑にひっついていたので実に都内を歩くのが結構楽しい。
都内の大学に居た頃はこの雑踏が本当に嫌で嫌で仕方なかったのだが・・・(汗
「隣の芝は青い」とはまさにことこと。
離れてみれば懐かしく恋しく、近づけばまた嫌になる。いやはや勝手な性分だ。

日本橋からガス灯を辿り歩き、私が着いた先は銀座。
このへんは街の造りが秩序だっていて個人的には好きだ。
同様に感じる人も多いのか、たまたま観光客も多かったせいなのか、「街並みが綺麗ね~」などと呟いている人の声が耳に入る。

大通りに沿って、上品な大きなプランターに花が植えてあった。
同じく何処からか「この花も綺麗ね~、まさに銀座よね~」との声。
「んん?」と思う私。

どこかのご婦人が発言した「まさに銀座」の花は、なんのことはない。
キク科一年草で御馴染みの「マリーゴールド」だった。
てゆぅか、普通にご近所の商店街の花壇にも植えてあるんですけど・・・・
てゆぅか、連作障害の防除手段として野菜畑にたくさん植えられているんですけど・・・
てゆぅか、ケ●ヨーD2で1ポット¥98で売られているんですけど・・・

これが銀座ブランド効果、か?
ポピュラーな大衆花マリーゴールド女史も「まさに銀座」に化ける。
奥さん、貴方自分の家の御近所にも多分咲いていますよ。

日本一の地価を誇る場所だけあって確かに物価は高い。
果物も有名百貨店のお店では近所のスーパーの2倍3倍以上にもなる。
どこか「銀座だからなぁ」で納得してしまう。

でもしかし、「本質を見る」姿勢を忘れてはいけない。
隣の芝が青いのも良い。銀座マジックにかかって銀ブラ(死語?)も良い。それも実際楽しい。
ただ銀座だろうが自分の地元の商店街だろうが、同じものは同じ。
良いものは良く、同様に悪いものは悪い。

メディアや大多数の人間の評判や噂、そういったものに心動かされない姿勢を失ってはいないだろうか。
少なくとも「自分が重きを置いている大切な物事」に関しては、特にその姿勢を忘れてはいけないと思う。
その物事の「本質」をしっかり判断しなければいけないと思う。

そう考え、私は歩道に並んだマリーゴールドを改めて見た。

うん、マリーゴールドはここでもやっぱり変わらず綺麗だった。


終わった夏 通り過ぎた女性たち [あいさつ]

どれだけの方がここを見ていてくれたかはわからないが、兎にも角にも御無沙汰である。
前回の記事のコメントでも書いたが、家業の方が忙しく、のんびり文書を打つ時間がなかった。

・・・いや、正確には時間はあった。自身に余裕がなかったと言うべきだろう。
この「気持ちの余裕」というやつは相当大事で、これがないと人間全く持って面白くなくなってしまう気がする。

この夏、仕事をしながらも実は身の回りで多くの花が咲き、そして散っていった。
私の育てている花々も然りである。
他の木にまとわりつきながらも美しいノウゼンカズラ、名のとおり鷺の形を模したサギソウ、輪郭のはっきりした花を咲かせたモミジアオイ、朝と夕で顔色を変えるスイフヨウ・・・どれもこれも私にとっては注目に値する、文書化してテーマ化するに値する花々であった。
されども8月からの我が日常は慌しく、それらについて深く考える余裕も無く時間は過ぎていったのだ。

気が付けば散っていた、酷いものになると水をあげる余裕すらなく気が付けば枯れていた。
花を愛でるものとして育てるものとして本当に失格だと思うのだが、包み隠さず言えばそういった私の過失で死していった花もあった。

何故そのような事態が起こってしまったかと言えば、それはひとえに私の「余裕の無さ」からなのである。

自分の近くにいながらも、目には入りながらも、私は彼女らに十分に情を注ぐことはできなかった。
確かに水やりはした。ただ彼女らが欲しかったのは果たして「水だけ」だったのだろうか。

人間余裕があれば多くのものに目を配れる。
自分だけでなく他人にも目を配れる。
他人のことを考えられる、他人を取り巻く環境でさえも考えられる。
他人の家族・友人・同僚・・・そんなことだって考えられる。
大事なのは他人と「会話」することではなく、相手のことを想っているかなのだ。

だからそうやって考えたことは、結果他人との付き合いをしていくにおいて非常に大切で、「本当に相手のことを考えている自分」を他人との会話の中で、自然と相手に伝えることが出来る。
それは深い人間関係を構築するにおいて、とても大事なことだと思う。

だって人間、少なからず自分のことを考えてくれている他人に心を許すから。
友人も、そして恋人ならば尚更。
相手を想うから想われる、相手を好きだから好かれる、相手を愛するから愛される。

求められているのはいつも「思慕の気持ち」であり、形だけの「会話」ではないのである。
そしてそれを生むのは「気持ちの余裕」。
さらにそれを生んでいるのは私自身、貴方自身。

だからまずは自分を大切に。
どんなに忙しくも、忘れてはいけないのはこの気持ちなんじゃないかと思った夏2007。

以上、夏の素敵な出会いを満喫できなかった私でしたとさ。
チャンチャン


メドーセージ -当たり前が一番大事- [花]

家の門の前に「メドーセージ(サルビア・グラニティカ)」という花が生えている。
濃いブルーが特徴の宿根草で毎年毎年この時期には頭を垂れるように花を咲かせている。
まるで家を発つ住人を見送るため丁寧に挨拶してくれているようだ。

その日も家の前のメドーセージは元気に咲いて出社前の私を送ってくれたが、
私の顔はちょっと難しい顔をしていた。
上司のUさんの態度がどうも好ましくないことに小さな嫌悪感を感じていたのだ。

世間には挨拶やお礼が出来ない人が意外と多くて驚くことがある。
こちらが挨拶しても無視されたりすると、すごく意味が分からない。Uさんもその一人だった。
向こうから挨拶がなかったのはまぁ仕方なかったとしても、挨拶をされて一声相手に返すだけのことが何で出来ないのかなぁ、と悲しくなる。
特にUさんは、口をすっぱくして「挨拶くらい出来ないと良い大人になれないよ!」と子供の頃私に注意していた世代の方だけに、何だか昔怒られたことって説得力がないなぁと思う。

勿論、相手がしないからこちらも挨拶しません、といった幼稚なことはしない。
でも時として「あの人感じ悪いし、しなくていいや」と思ってしまう自分もいる。
こうなると完全に相手に負の感情を抱いてしまっていることになる。
自分の顔は大抵仏頂面、何だか朝から機嫌の悪そうな顔になる。

そんなとき後輩の女の子の元気な笑顔の挨拶「おはよーございます!」
「おはよ」とこちらもあわてて笑って挨拶すると、とても嬉しそうに倍くらいの輝いた笑顔を彼女はする。
小走りで彼女はその無愛想なUさんにも挨拶する。
「おはよーございまーす!」
そのときUさんがどんな顔をして、そして挨拶を返していたかしらないが、
彼女の元気さを見ると途端に何だか「自分ってちっちゃいヤッチャなぁ~」と思った。

悪い人ばっかり見てても仕方ない。
元気で挨拶してくれる人もいるんだし、自分も彼女のようにならなくちゃと思う。
危うく自分のマイナスの感情を何の罪も無い人に向けてしまうところだった。

笑顔で挨拶やお礼をすると、時として「キミは偉いな」と言われることがある。
ごくごく自然の当たり前のことをしただけなのに。

要するに当たり前のことが出来ない人が多いから、当たり前が出来ている人が当たり前のことをしているだけなのに評価されるのだろう。
この世の中、当たり前のことが実はすごく価値のあることになっているのだ。

今日も家の前のメドーセージは元気に笑いかけてくれていた。

人間喜怒哀楽はどうしてもあって、時としてうつむき加減になる辛いこともあるが、やっぱり素直な笑顔に対して私も極力笑顔でいるようにしよう。
当たり前の笑顔に応えられるようにしよう。


ワルナスビ -インタビュー・ウィズ・ワルナスビ- [花]

【ワルナスビ(以下【ワ】)】
アタイの名はワルナスビ(悪茄子)。
何も自分で名乗ったわけじゃない。世間がそう呼ぶのさ。

何故そう呼ばれるのか?

【ワ】
まあまずは野菜のナスの奴に似ているからだろうね。
ま、気になるのは枕の「ワル」ってとこだろ?
いいんだよ、気にすんな。謝っちゃいるが、それが面白くて聞いてんのはわかってんだ。


これがナスの花。似てるだろ?

そりゃあアタイの風貌が悪いから、かねえ。
葉は他人を寄せ付けないようギザギザになっているし、茎だってチクチクするよ。
触るもの皆傷つけた、っていうの? ギザギザハートの子守唄っていうかね。
あと体力だって相当ある。

例えば?

【ワ】
踏み潰されても、切り刻まれても、根っこがちょっとでも残っていれば直ぐに元通りさ。
バラバラにされたって、その一つ一つがからだをつくり、増えちゃったりするよ。

そう直ぐ仲間を増やして群れるのも嫌われる理由かねえ。
ま、ヤンキーのサガってやつ?

確かにワルナスビさんの仲間はいたるところで見かけます。

【ワ】
種も飛ばすし、根っこを広げてどんどん仲間を増やすよ。
そうやって周りの植物達が入り込めないようにしてしまうのさ。
なにせ、さわるもの皆傷つけた、からね。

でもそれだけ勢力を増やすためには何か他にも手段があるのでは?

【ワ】
よく気付いたね。そのうえアタイはとんでもない毒を身体に仕込んでるんだ。
ソラニンっていうんだけどね。家畜が食べると場合によっては中毒死することがあるんだよ。
だから下手に手出しできない。
実も毒があってね。実は英語じゃ「悪魔のリンゴ」って言われてるんだよ。

どうだい? これがアタイさ。酷い女だろ? アハハハハ!!

・・・話を変えたいと思います。ワルナスビさんの生い立ちについて。

【ワ】
出身はね。アメリカのカロライナ州のあたりなんだよ。
そう、こう見えてもね。アメリカ暮らし長かったんだよ。
おっと、「ノースカロライナ州」か「サウスカロライナ州」かなんて野暮なことは聞くなよ。
カロライナはカロライナ、それでいいじゃないか。

思い出すねえ・・・あのころ。

どんな少女時代でしたか?

アメリカのころから札付きの悪なんて言われてね。
悪だ悪だってあんまりにアタイを追い出そうとするもんだから頭来てね。
どんどんどんどん世間から自分を守るように悪くなっちまったんだ。
信じられぬ大人との争いの中で、っていうの? 行儀良く真面目なんて出来やしなかったね。
夜の校舎窓ガラス壊して回ったね。

そりゃ昔はそれなりにか弱かったし、毒だって持っていなかったよ。
でも自分が生きるためには仕方なかったんだ・・・。
で、だんだんだんだん自分が安心して過ごすため、
仲間を増やし続けてこんな島国まで来ちゃったってわけ。
Welcomeようこそ日本へ、っていうの? ・・・ま、そんな感じではなかったけどね。

そうですか・・・ワルナスビさんも色々ご苦労されたのですね。

【ワ】
苦労なんてほどでもないよ。

おう、そのアタイのこと悪茄子っていうけどね、
その悪の手助けしてるのは人間だってのも忘れちゃいけないよ。

すいません。でもどういうことでしょうか?

【ワ】
車・船・飛行機、そういったもんが出来たからアタイもそれに便乗してここまで大きな勢力をつくっちまったんだ。世界各地に移動するあんたらにくっ付いていたらこうなっちまったんだよ。

そもそもさ、あんたらとアタイら何が大きく違うっていうんだい?

自分達の仲間をどんどん増やして、自分達の生活を豊かにするために気にいらないものは取り除いてさあ。アタイらが仲間増やして、他の植物の住みか占拠してんのと何が違うんだい??

植物の中でも言ってるやついるよ。
本当の悪(ワル)はあいつらなんじゃないか、ってね。

なあなあアンタ、そこんとこは胸に手を当ててよぉく考えなよ?

は、はい。すいません。

【ワ】
人のふりみて何とやら、だ。
ま、どうせあんたらはアタイらは「人」じゃないからとか言うんだろうけど・・・くくく。
そういう傲慢な目線・・・嫌いじゃないけどね。

でも、奢れるものは久しからず。
昔からあんたらの歴史の中でもそういうヤツが滅んできたんじゃないのかい?

は、はぁ。

【ワ】
おっとちょっと学のあるところ見せちまったようだね。
そりゃこの生活も長いから、色々情報ってやつも入ってくるのさ。

ほら今度の参院選は自民党がヤバいんだろ?
ま、アタイのところにもよろしく来たよ。昔の友達が比例区は公明党にって・・・・

・・・・
彼女の話は尽きない

---
・wikiphedia「ワルナスビ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%93


トウモロコシ -頑張れ男の子- [野菜]

近所のスーパーの野菜売場に夏野菜がたくさん並んでいる。
高校生くらいだろうか、売り子の女の子が試食品を配りながら、可愛らしい声を出しPRを行っている。
元気な笑顔と声に老若男女皆が集まる。
面白いものでこういう売り子さんは女性の方が人気があるものだ。
横ではひな壇に立って男子高生風男子も売り子をしていたのだが・・・どうも人の集まりが違うのは仕方ないところか。

スーパーも夏野菜販売に力を入れるように、我が家の畑の夏野菜も旬の時期に入ってきた。
お店で馴染みの顔も自宅でつくれば美味しさもひとしおだ。

家庭菜園の最大の利点はやはり収穫時期が自分で決められ、一番美味しい時期のものを食べられるところ。
スーパーに並ぶものの多くは、産地からの輸送と市場を経由する過程があるため、どうしても鮮度が落ちてしまう。
食べられるギリギリまで成らせておき、夜間に養分がぎっしり詰められた朝取り収穫野菜には勝てない。
「自分でつくった」、その達成感という名のスパイスがまたその野菜を美味くする。
現実的な栄養価から見ても、心理的な作用から見ても取れたて野菜はやっぱり美味しいのである。

この時期の畑を見渡すと楽しいのは様々な収穫物の結果と、色とりどりの野菜の花があるところのようにも思う。
普段は食べるものばかり見ている人間としては彼女らが見せる別の顔もまた嬉しい。

野菜もだいたい皆「はなっ♪」という花を咲かせてはいるのだが、なんだか異質な花が咲く野菜がある。

その花に馴染みがあるかは知らないが、御存知トウモロコシである。
イネ科の野菜であることからわかるように、どことなく稲穂に似ている。

が、実はトウモロコシの花はこれだけではない。

私たちが食べるトウモロコシの実の頭についている「毛」。
実はこれも「花」なのである。

そうトウモロコシは男子の花「雄花」と女子の花「雌花」が一つの株に存在する植物なのだ。
この毛が上の稲穂みたいな部分から降る花粉をキャッチして、あのトウモロコシの実を成らすのだ。
しかもあの毛一本一本がトウモロコシの実の一粒一粒と繋がっているというから驚きだ。

トウモロコシにおいては花の時点では女子は目立たない存在だった。
「花」というと人間でも植物でも女性的な印象が強いものではあるが、男性もあんなてっぺんで目立つところで頑張っていたのである。

しかし目立つところにいても実は全然目立っていない・・・
そんなところが男子が美しさの形容方法として用いられない理由なのかもしれない、と切に思った。

頑張れ男の子!


図1:美味しく戴いております・・・


フクシア -メモリ増設が気付かせてくれたこと- [花]

何故かヘクソカズラにトラックバックが2つも付いている今日この頃、皆様におかれましてはご多忙であろうか。

梨農家は今の時期は時間に追われるような仕事はなく、比較的ゆとりを持って仕事をしている。
そんなわけなので梅雨時には雨が降るとその日は休み、という感覚である。
御多分に漏れず、私も雨が降ったので私用を済ませることにした。

私はまず予てよりやろうと決意していたマイPCのメモリ増設をしようと思った。
既にこのPCも使って4年。色々動作も遅く不便を感じていたのだ。
起動からネット接続まで15分もかかるPCを何の対策もせず使っていたスローライフの申し子な私だが、いよいよ限界の時が来た。

ヤ●ダ電気でマイPCに適応したメモリを購入し256→512MBに。
ついでに外付けのHDDやらUSB2.0インターフェースやらも買い、PCの前で待機の少ない快適なPCライフをつくりあげようとした。
増設や諸々の設定も無事済み、おかげですこぶる動作が良くなり、生憎の雨模様の下なんだか非常に晴れやかな気分になった。
こんな作業なんて意を決すれば直ぐ済むことなのに、なかなか人というやつは億劫がってやろうとしない。
今や起動してから2分足らずでネットが出来る。
終わってみればPCの前で動作の遅さをボケーッと待っていた時間が本当に馬鹿らしいものだ。

・・・
そのとき私は気付いた。
メモリ増設と園芸の関連性に。

メモリ増設とは言わば「植え替え」である。

何年もPCを使い様々のソフトやデータを入れていけば、次第にもっと大きな動作環境が求められる。
PCが快適な動作をするためには、それに見合ったメモリを増やしていかなければならない。

これは鉢植えにした植物が大きくなるにつれて鉢が狭くなってくる状態と同じなのである。
彼女達は元は地面に生えているため、鉢内の土の容量が少ないと根の伸びが抑えされてしまい、根詰まりという状態になる。
この根詰まりが起きことで、根を伸ばせなくなった植物はからだ全体の生長が抑えられてしまうのだ。
要するに根という土台がしっかり伸び広がらなくては地上部も伴わないのである。
枝もよく伸びなければ花も咲かない、そんな植物が出来上がってしまうのである。

土の量が足りない植物。
メモリが足りないPC。
何の因果か、この目の前の無機質な箱と外にある有機質な花が一直線上に繋がった。

「はぁッ!!」
そのとき私は今年ほとんど花をつけていないフクシアがあったことを直ぐに思い出した。
気が付くと私は直ぐに部屋を飛び出し、雨降る屋外の鉢植えゾーンに向かっていた。
フクシアはわずかばかりの花を付け、そこにいた。
今は満開の時期であってもいいのに。
そうフクシアは明らかにメモリ不足だった。

私は雨に濡れながら我武者羅に土を配合し肥料を混ぜ用土をつくった。
そしてフクシアを2回りほど径の広い鉢に植え替えた。
彼女も私もびしょびしょだった。
「ありがとう」
恐らくそんなことは彼女は言っていない。
むしろ「遅いよ!」ぐらいの勢いだろう。三行半を叩きつけられても文句など絶対言えない。
「ごめんね、ごめんね!」こうなると謝るしか誠意を見せるしかない。

園芸作業に慣れ、管理を怠慢に行っていた自分がいた。
こんなに直ぐに出来てしまう作業を何処か億劫がっていた自分がいた。

メモリは私に教えてくれたようだ。
自身の惰性を。その弊害を受ける女性の存在を。
恥ずかしながら私は思わず泣いてしまった。

今日は雨が降っていて良かった。
彼女に涙を見られずに済んだ。

・・・あ、はい、泣いたのはウソです。ごめんなさい。

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・フクシア
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/fukusia.html


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