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カラスウリ -地上の花火- [花]

7月に入り全国各地の夜祭りが催されはじめ、いよいよ夏本番といった雰囲気がしてきた。
我が家の我が部屋からも祭り独特の賑やかな囃子が聞こえてくる。

神輿、山車、出店、浴衣、太鼓・・・祭りと言えば様々な物事が連想出来るが、「祭りの夏夜を彩るものといえば?」という問を人にしたらば、まず「花火」と答えるだろう。
暗く広がる夜空を明るく彩る打ち上げ花火は実に魅力的な夏の風物詩である。

花火があんなにも愛されるのは、花火師さんの技術は勿論のことだが、根本として「夜に花が咲く」というところにあるのではないかと私は思っている。
「花は昼間咲くものだ」という世間の通念とは逆の、ちょっと異なる不思議な開花。
そのギャップがあんなにも多くの人の心を魅了し、注目を集める。

ただ、星が瞬く大空を仰ぎ一瞬の美しさに歓喜する皆の直ぐ側に、身近にも夜の花があるがあることも忘れないで欲しい。

カラスウリ
ウリ科のつる性多年草で木に巻きつき背を伸ばす植物である。
彼女が面白いのは、その花が夜だけ咲くところである。日中は蕾を硬く閉じている。
夜に外を歩くことがあったら、少し周囲に目を配りながら歩いて欲しい。
普段見慣れた道に突然いつもとは違った光景を見ることが出来るはずだ。
ただの壁や何の変哲も無い生垣が、真っ白な花々に彩られている。
彼女の花は、月の淡く柔らかい光や家屋の窓や街灯から零れる弱い光に照らされ、実に幻想的に白く輝く。
クリスマスのうるさい電飾なんかより数段美しい、天然のイルミネーションだ。

直径7~10cm程度のレース状広がったその花縁部は、花火を見ているようでもある。

夜空を大輪の花火が輝くように、地上にも夜を彩る小さな花火が直ぐ側にあった。
私達は遠くの強い光に気を取られがちだが、気に留めないだけで美しいものは身近に意外と存在しているものだ。

午後6時
午後6時40分
午後7時15分


人類一人一鉢計画 [あいさつ]

「たまには自分のことでも書いたら?」と、このブログのサイレントリーダー(静かなる読者)に言われる。

私としては植物との付き合い方を自分の文章で描くことで十分自己紹介しているつもりなのだが・・・。
まあ、たまには趣向を変えてみるのもいいのかもしれない。

では私の「野望」について。

最近益々思うのだが、私達は「植物」という、あまりにも身近な隣人をあまりにも知らなさ過ぎる。
まあ植物の全てを知ろうという発想は傲慢なのだが、お隣さんである以上ある程度は知らないと困ることも多いだろう。
ほら醤油とか貸してもらい易いし、煮物つくり過ぎちゃったら「分けてあげる」とか体の良いこといって減らしたいし、山行くとときとか4WDの車持っていたら借りたいし
・・・お隣さんとの交流があるって何かと便利。
そんな仲良くなればきっと良いことがある未知の隣人、植物と交流しようぜ!
ってのがこのブログの骨子だったりもする。

何故そんなこと言うかって・・・だってお隣さんとの付き合いあります?
煩わしいから億劫だから最近物騒だからって言って交流断ってません?

祖父母の時代、父母の時代はまだ身の回りに自然があったが、最近はと言えば都市開発が進みあまりに環境は変わってしまった。
自然がないから四季の移ろいに愚鈍になり、花でも野菜でも今何が旬なのか、それがわからない人が増えた。
開発が進み娯楽がたくさん増えたから、身近な地味なものなんて二の次になってしまった。
近くに住む隣の人がどんな様子なのか知らない人が増えてしまった。

サクラ舞い散る春も、ヒマワリ耐える夏も、コスモスが恋する秋も、フリージアの眠る冬も
・・・とは吉井和哉の詞だが、この詞の情緒すらもわからなくなる、そんな感性が蔓延するとしたら。
それはとっても恐ろしいことだと私は思う。
近くのコンビニがなくなることなんかより人間にとってずっと大きな損失だし、危機だと思う。

だって身の回りに何が起こっているかって自然の変化を通じて人間は感じるものでしょう。
というかどんな生き物だってそうでしょう。
恐らくそれが愚鈍になってしまっているのは人間だけ。
アタマは良くなっているかもしれないけど、相当鈍いと思う、人間。

だからこそ私は今こそみ~んな植物を一人一つ育てるべきだと主張する。
これが私の野望である。
名づけて「人類一人一鉢計画」!

父ちゃんも母ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんも爺ちゃんも婆ちゃんも皆。
一人が一つの植物を育てることを義務化されていて。庭の無い家だってあるだろうから鉢で育てる。
勿論屋外で育てる。室内じゃ植物は季節に応じた顔を見せないこともある。

共通の会話も生まれる。だって絶対一人一鉢は育てているんだから(笑
知らない人とも会話が膨らむ。
「いやー下葉黄ばんでます?」
「だめですよ、肥料切れですな。」
みたいな。

これは「植林しよう!」とか温暖化対策の話をしているんじゃない。もっと根源的な話。
他の生き物と接して生きよう、という話である。

人間にとって最も近しく未知の隣人「植物」。
彼女の生長を世話し、見守ることで、私達は絶対に忘れかけていた感性を取り戻せると思う。
そして自分の周りの変化に気付きだせると思う。
身近な人たちの大切さを再認識できると思う。

・・・何だかあまり普段の内容と変わらなくなってしまった気もするが・・・ま、結局私ぁこういう人間ってこと、かな?
よろしいでしょうか?(笑


じゃあ育ててるスイカを載せときますわ。


ルリタマアザミ -ファッションと危機管理- [花]

ルリタマアザミの花の時期が近くなってきた。
このアザミは開花前にトゲの生えたボールのような真ん丸な蕾をつくる。

このトゲボールは触れば痛いのだが、何処か可愛らしい。
これが「瑠璃玉アザミ」の人気の理由でもある。
しかし、このトゲは一体何故あるのだろうか。ただのパンク野郎の花なのだろうか。
その理由は世間の女性を巡る危機管理に通ずるところも大きい。

女性の周囲には男性に比べ危険が多い。
身近なところだと、ひったくり、強盗、空き巣、ストーカーetc
悲しいことに挙げてみるとかなり多い。
どうしても女性は男性より身体的に劣るぶん、犯罪の対象になりやすいのだ。

自然界でも身体的に劣る生き物は他者からの標的にはされやすい。
虫は蛙に狙われ、蛙は鳥に狙われ、鳥は猫に狙われる。
植物も然り、他の生物に狙われるのだが、上に挙げた例とは一点大きく違うことがある。
それは、植物は「動くことが出来ない」ということだ。
残念ながら植物は、虫や微生物の食事にもなる、生物のピラミッドで言えば一番下の階層に当たるような存在である。

しかし彼女たちだって生きなければならない。
そのために自分を守る方法を各々編み出していった。
花を守るためルリタマアザミも蕾にトゲを纏い自分の子を守ったのである。
同様に果実を守るためのクリのイガ。捕食を防ぐためのトリカブトの毒。外敵が嫌うネギの臭い。
これらは植物が長年掛けて身につけた自衛のための進化といっても良い。

外敵防御手段というだけでなく「クリのイガ剥いて食べるのめんどくせ~な」と人間に思わせ、消費量が減った。
これでもある意味クリが果実を守ったことになるだろう。
人間から自分の子供である果実を守ったのだ。
クリの勝ちである。
そんな心理的効果も併せ持つ植物の自衛手段は凄いのである。

植物は自分が弱く狙われ易いということをしっかり本当的に自覚している。
こうして出来た彼女らのガードの堅さはかなりのものである。

しかし人間の女性は外観だけで見れば年々ガードが甘くなっている気がする。
何故時代を重ねるにつれ、女性ファッションは露出が高い傾向になるのだろうか。
確かに昔々と比べると可愛いし、華やかだとは思うのだが、陰湿な性犯罪も増加する中ではどうもその服装は逆行しているような気がしてならない。
胸元が大きく開いたシャツを着たり、ケツが出そうなズボンを履く露出が高い女性。
時々ローライズのジーンズをグイッと上に引っ張り上げてやりたくなる
(やってしまうと確実に変態なのでやりませんが(汗))。
適度ならば良いが明らかに「やりすぎ」の方もいらっしゃる。

流石に「十二単を着ろ」とは言わないが、目を覆いたくなるような過度なファッションは如何なものだろうか。
老婆心ながら非常にその身が心配である。
機会があればアザミさんと護身についてゆっくり対談をしてもらいたいものだ。


図1:「アンタ、そんな格好じゃ野郎が付け上がっちまうよ!」と言いたげなルリタマアザミ女史


セロジネ&ラフレシア -自分の名前への愛着ありますか?- [花]

生まれてから自分という人間をあらわす「名前」を持つ以上、その名前には得も知れぬ愛着がある。
一見大したことないようにも思える他人からの「自分の名前の呼び間違い」だが、間違えた呼んでしまった人は呼ばれた人から結構嫌な顔され、その気分を害するようだ。
私は結構ありふれた名前なので名前を間違えられたことはほとんどない。
そのため不快な気持ちはよくわからなかったのだが、名前を間違えることは失礼という一般常識的理解はしていた。

時は昔。園芸店勤務時代。
いつものように店内を歩いていると、いつもようにお客さんに声を掛けられた。

客「あの~、ビオレあります?」
私「はい?」
客「ビオレですよ、小花でキレイな・・・」

勿論ビオレママになれるアレではない。
ここは植物を扱う場所なのだから。
ほとんどの人が察することが出来たろうが、お客さん曰く「ビオレ」とはスミレ科一年草「ビオラ」のことである。

お花に興味を持って来店される人も色々いらっしゃり、かなりアバウトな情報を持って店員に質問される方も多い。
お相手をさせてもらう方としてはちょっとした推測力もいる仕事ではある。

サファニア→サフィニア
オナミエシ→オミナエシ

など可愛い間違いが多く、植物の特徴を詳しく尋ねてみれば簡単に解ける謎ではある。
しかし時としてとんでもない謎を持ち込んでくる人もいる。

あれも今頃。蒸し暑い時期。日傘をさした品の良いご婦人に話しかけられた。

客「すいませんラフレシアください。」
私「はいラフレシア・・・ええっ!!?」

●ラフレシア
http://www.bbec.sabah.gov.my/japanese/nature/Raflesia.htm

植物に詳しくなくてもご存知の方は多いだろうが、「ラフレシア」とは東南アジア島とマレー半島に生息する植物。
完全寄生性で他の植物の根に根を張り、そこから養分を吸収して生きる。
花粉の運び屋としてハエを使うため、花からは強烈な腐肉臭を発しているという。
そして何より特徴的なのはその大きさで花の直径は1m以上もあり、とにかくでかい。

常識的に考えて園芸店で扱うなどあり得ない植物だ。
何かと間違えているのだろうが、ラフレシアと間違う植物って何だ???

私「あのー・・・どんな植物でしょう?」
客「あら御存知なくて? こちら見てみなさいな。」
私「どきどき・・・」
客「このページの。ね、ラフレシア。」

そのご婦人は栽培書とは異なる植物の写真集のようなものを開いた。
確かに彼女の示したところは熱帯の植物のページで、そこの真ん中にラフレシアは掲載されていた。
間違えていないのか? 素で言っているのか?

私「もうしわけありませんが、日本ではラフレシアは扱っていませんよ。」
客「え、だって以前こちらで拝見しましたよ。」
私「ええっ!!?」

強烈な腐肉臭のする寄生性の1m以上もある巨大な花を売ってる園芸店ってどんな店だろうか??
ここで少々お待ち下さいといって、先輩従業員に「すいません昔ラフレシアって売ってたんですか?」と聞いたら確実に私が変な人扱いである。
この問題は、私が課せられたここで必ず解決しなければならない問題であると瞬時に理解した。
私は再度確認のため、ラフレシアを指差し尋ねた。

私「お客様、この花でよろしいんですよね??」
客「え、違いますよ。」
私「は?」

そのご婦人が静かに指差した先にはランの仲間「セロジネ」が。
どうやら同じ密林に咲く花のページにあったセロジネの表記を勘違いして「ラフレシア」などとおっしゃっていたらしい。

客「ふふふ、こんなジャングルに咲く大きな花お店で売っているわけないでしょう?」
品良く嘲笑されてしまい、何だか非常に腑に落ちない思いをしてしまった。

常連のお客様だったため、以降そのお客さんの私の呼び名は「ラフレシアの店員さん」。
「ねえ今日はラフレシアの店員さんいないの?」と他従業員に聞いたりして・・・はあ。
「ねえナシエンさんってラフレシアなの?」と他従業員に笑いながら質問されたり。

・・・正しい名前で呼ばれないことは辛いものだと身に染みて理解できたのだった。


インパチェンス -虚像と実像- [花]

「お花にお日様をいっぱい当ててあげると元気に花を咲かせるよ!」

小学校の頃、担任の先生が理科の授業で花壇つくりを行うとき教えてくれた。
齢は二十代後半くらいだったろうか。とにかく元気な女性で明るかったのを覚えている。
確か丁度今の時期くらいの暑い時期だった。
先生が近くのホームセンターで買ってきてくれた「インパチェンス」という花の苗を花壇いっぱいに植えた。
赤、ピンク、白・・・まだ小さい苗で花数こそ少ないものの様々な色があった。
花壇に面した校舎前の通路は華やかになり、まさに花道のようだった。

私達は明日からの水やりを交替性で行うことになり、同時に観察日記をつけることになった。
みんな自分の植えた花が大きくなるのを楽しみにしていた。

しかし翌日。
花壇のインパチェンスは全部真っ黒になっていた。
葉と茎は焼け焦げたように黒ずみ、朽ち果て、花々は無残に散っていた。
先生が泣き崩れて私達に謝ったのを覚えている。
いつも元気いっぱいだった先生だけに私も子供ながらに悲しい気持ちになったものだ。

・・・
実はインパチェンスという花は「お日様をいっぱい当ててあげる」とイケナイ花だったのである。
植物には「耐陽性」(陽光に耐える性質)というものがあり、これが低いものもある。
要するに、耐陽性が低い=太陽の強い光に弱い、ということ。
インパチェンスはこの耐陽性の低い、強光に弱い花で、日陰で綺麗に咲く花だったのだ。

先生のことを責めるわけではないが、確かに皆「植物=日光大好き」は常識のように理解している感はある。
確かに彼女たちは光がないと生きられず、そういった意味では「日光が好き」ということで間違いはない。
しかし好きにもそれぞれ度合いがあり、誰でも凄く日光を浴び続けることが大好きというわけではないことも理解しなければならない。
いくら世間一般で「女性は●●が好き」と言われていても鵜呑みにしてはいけないのだ。
「え、●●嫌いなの? 変わっているね~。」 本当にそれが変わったことなのだろうか。

女性はスウィーツが好き。
女性は宝石が好き。
女性はメイクを欠かさない。
女性は過去の恋愛にこだわない。
etc

テレビや雑誌が伝える女性論のようなものは、あくまで一部の意見を集約したものや平均に過ぎない。
中にはそれには当てはまらない女性もいる。一般論が必ずしも全てではないのだ。
甘いものが嫌いな女性もいる。宝石がアクセサリーとしてうるさいと嫌う女性もいる。
化粧が好きではない女性もいる。昔の恋愛を忘れらない女性もいる。

大事なのは、尊重すべきなのは、目の前にいる一個人の人格であり、何処かで作り上げられた女性の虚像ではない。
何でもかんでも型に当てはめて考えることは楽なことなのかもしれない。
しかしそれはリアルな1人の女性をエスコートするにはきっと至らないだろうし、女性を不幸にさえし得るということは覚えておいた方が良いだろう。

今、あの先生がインパチェンスを日陰に植え、あのときの経験を活かし美しい花を咲かせていることを願って止まない。


ヘクソカズラ -名前の重要性- [花]

ここに一つの植物を紹介する。

初夏から花を咲かせるツル性の植物で、ラッパ状の小さな花弁、その内部を彩る朱色がルージュのように美しい。
花は細く伸びるツルの所々からたくさん咲き、最盛期には白・赤のコントラストが目を奪う。
草むらに生息し、質素だが異彩を放つその花。

彼女の名は「ヘクソカズラ」。
漢字で書くと「屁糞蔓」。
その漢字の意味は「オナラ・ウ●コ・ツル性植物」。
名の由来は「オナラとウンコを混ぜ合わせたみたいな臭いのする花を咲かせる」から。

実に、実に、実に気の毒な名前をつけられてしまったものである。
私はこれほど植物に「同情」したことはない。

しかし同情こそするが、実際のところ花は臭い。
いわゆる臭気と呼ぶに相応しい臭い。
チーズや納豆の匂いを好きな人はいるが・・・
ヘクソのソレはフェチズムの介在し得ない好き嫌いのない臭さ。
実もフタもない言い方をすれば、オナラやウ●コを「良い臭いだわ~」っていう人なんていない。
要するに本当に臭いのである。

しかし、だからといって、だからといって命名者さんよ、「屁糞」はないだろう。
この世に希望を持って生まれた命の一つとして、そのネーミングはないだろう。
人間はサル顔の赤ちゃんが生まれたといって「猿男(さるお)」と名づけるか?
いや名づけない。名は体を表すとはいうものの、それはあまりにも不憫だからだ。
出来ればその、人が我が子に対する愛情のほんの1gでもヘクソさんに注いでやれば、このような事態は防げたのではなかろうか。

一度ついたイメージはなかなか拭い去れない。
その後私のように思った方が彼女の名を「早乙女花(サオトメバナ)」とした。
しかし世間は冷たかった。
「乙女とか言ってるけどアイツ元は屁糞だぜ」

彼女は美しい。早乙女の名もその容姿に相応しい。
しかし私も否定できない揺ぎ無い事実として彼女は本当に臭かった。
その臭いは彼女の「早乙女」としての再出発を許さない決定的なものだったのだ。

・・・ドンマイ、ヘクソカズラ!!
名前だけが全てではない。ただの五十音の組み合わせじゃないか。
事実彼女は美しいのだ。いいじゃないか。

と、言うものの彼女は臭い。
ヘクソカズラさんの地位向上は来るのだろうか。
環境が変わり希少価値が出たとしても、彼女にスポットライトが当たる日が来ないような気がしてならないのは気のせいだろうか・・・。

・・・
子供向けのネット図鑑「Yahoo!きっず図鑑」にも彼女の紹介がされている。
http://contents.kids.yahoo.co.jp/zukan/plants/card/0522.html

その説明文を見て欲しい

> 「ヘ」の上に「クソ」までつく気の毒な名をもつヘクソカズラは、荒れた雑木林などに生える。
> 名前のとおりに花などをもむといやなにおいがするが、
> 芯の部分は落ちついたアズキ色でしゃれている。
> 冬になれば枯れたつるで素敵なリースができる。

・・・散々クサイと言っておいて「冬になれば素敵なリースができる」って・・・。
絶対キッズはつくらないと思う。

P.S.
全編下話でスイマセン・・・


ネジバナ -希少価値=美しさ?- [花]

ネジバナである。
その名のとおり花が螺旋状にねじれるように咲くから「捩(ね)じり花」、転じて「捩花(ネジバナ)」。

園芸店勤務時代、山野草売場で偶然見かけた。
「わぁ、面白い、でも綺麗で、何となくホッとする花だなぁ」
私は彼女に暫し目を奪われた。

しかしこの花、私の親世代から言わせれば「雑草」のようである。
近所の野原に群生していた、畑に勝手に増えていた、そんな程度の扱いである。
だが私にしてみればとても珍しく、その容姿は美しく映る。

年配の方に尋ねると、今「山野草」なんて仰々しく扱われているものの多くは、かつてはその辺で目に入ったただの草花に過ぎないようだ。
ネジバナ然りヤマユリやシュンランのような今はオシャレな古典園芸植物ですら、昔々は単なる雑草で片付けられていた時代があったのである。

何故こうなったか、その理由は言うまでも無く都市開発や乱獲の影響だろう。
思えば私の生家の周囲も道路が敷かれマンションが建ち・・・かつて遊んだ野原や森は今はもう無い。

面白いものだ。
昔は邪魔者扱いされていた彼女らが今では古風でオシャレな野草。
我々二十代は新鮮だと食いつき、親の世代は懐かしみ食いつく。

数が少なくなれば人気が上がる。
いわゆる希少価値が出るわけだが、
美しいと思う心すらも数の多い少ないで変化してしまうのだとしたら、皮肉な話である。

私が三十年前に生を受けていたら、今のようにネジバナを美しいと思えただろうか?
世間一般の価値基準で、一個人のものの見方とは大きく変わってしまいうる。

もし今単なる雑草として扱われている植物がやがて稀少な植物になっていたとして、そのとき自分はどう振舞うだろう。
数十年後、ドクダミを大事に大事に育てている自分が居そうでちょっと嫌である。


図1:このへんにも昔はたくさん仲間がいたんだけどね~、と言いたげなネジバナ女史


誰もが梅雨ってマジうざい? -梅雨時の生き物事情- [育て方]

安定しない天気が続き、いよいよ梅雨迫る今日この頃。
雨の日が続き、気温が高まり湿度も高まる。
こうなると人間にとってみれば本当にうっとおしい時期だ。
「マジうざいんですけど!」
と癖毛の女子高生が手鏡を見ながら電車内で友人と話す光景が見られる日も近い。

さて植物にとってはどうだろうか?
「マジ草丈伸びるんですけど!」
と喜々としているだろうか。
「喜んでる」と思いきや、実は彼女らにとっても結構「うざい」時期である。

雨がたくさん降り、高温高湿度になってくる梅雨の時期。
これは植物を犯す病原菌たちが元気になる時期でもあるからだ。

畑のキュウリが
「マジうどんこ病なんですけど!」

花壇のベゴニアが
「マジ炭そ病なんですけど!」

フェンスのバラが
「マジ黒星病なんですけど!」

そんな光景が見られる日も同じく近い。
しかし彼女らにとっては癖毛がまとまらないどころの話ではない。
「マジ」とか軽く言っているが(まぁ本当は言ってないけど)、これは死に至りかねない緊急事態である。
こう考えればちょっと喜んでばかりもいられないことはわかる。

さて「恵の雨」という言葉がある。
これは植物のためだけにある言葉ではない。ましや人間のだめだけでもない。
ミミズだってオケラだってアメンボだって、森羅万象あらゆる生命が「水」の恩恵を受けている。
無論、病原菌と呼ばれる菌類・細菌類のような小さな生物も雨に恵まれている立派な生命だ。
雨は彼らの活動を手助けしてくれる。彼らは水を媒体として植物に感染し、植物を栄養源として成長する。
彼らの活動は必ずしも「他の生命に有益」ではない。
時として花は、野菜は、果樹は、彼らに犯され朽ち果てる。
彼女らを愛で育てる人々は病原菌を憎み、駆除しようとやっきになる。

だがちょっと視点を変えれば、人間のしていることもどこか病原菌たちと似ていないだろうか。
私達の活動は「他の生命に有益」だろうか。
病原菌たちは生きるために植物達を食事とするが、人間も生きるために植物達を食事としているのだ。
さらには人間なんか食べるに止まらず、もっと色んなことを植物にしていることは説明するまでもないだろう。
また敢えていうなら人間は梅雨時には農薬を普段より多く使って「病原菌の食事を邪魔している」とも言える。

ナシに感染した輪紋病
「も~、人間とか言って梅雨時マジうざくね!?」

梅雨時が恵を得られる半面やっかいだと思っているのは、意外とどの生物もなのかもしれない。
誰もが梅雨って「マジうざい」のかもしれない。

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・菌類(wikiphedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8C%E9%A1%9E
・真正菌類(wikiphedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%8F%8C%E9%A1%9E


シラン -誰もが花咲かないときもある- [花]

毎度毎度のある日のこと、お客さんに尋ねられる。
「先週くらいに花壇に植えたシラン(紫蘭)の花が終わって葉だけになっちゃったんだけど、邪魔だからカットしちゃっていいですか?」

ノォォォーーーー!!!!(NO)

と絶叫したかったが、私も分別あるオトナ。
寸でのところで耐えた。

皆さんは葉の意味を考えたことがあるだろうか。
中学生のころに光合成の話は必ず聞いているはずである。
「光合成を行い、植物にとっての栄養をつくる場所」
大まかに言えばこれで良い。

そう、先ほどの方はその栄養をつくる場所を取り除こうとされたのだ。
人間にとっては御飯が食べられないことに等しい。

確かにその役目を全うした葉、つまりは栄養分をつくる作業をもうしなくなった葉は、枯れ込み・見栄えも悪くなってしまうので除去してしまって良い。
だが、まだ活動を続ける瑞々しい艶やかな葉を切り捨てることは植物にとっては負担でしかない。
何故なら彼女たちが花後もつくり続ける養分は、地下部の根に貯蓄され、来年の花つくりに欠かせない養分になるからだ。
活力ある葉を除くことは来年の花を捨てることに繋がり、最悪彼女自体の「死」にさえ繋がる。

人間は植物の花を愛でて楽しむ。言わば人間にとっては植物の花期こそ全てかもしれない。
しかし彼女たちにとっては違う。
花を咲かせる時期は一年に多くある生活スケジュールの一部分に過ぎないのだ。
多年に渡って生きる植物を扱う際には、絶対に理解しなければいけない暗黙の了解であると言える。

彼女たちが蕾を付けすくすくと育つ姿や花を咲かせる姿は美しい。
しかしその花が散り、茎葉だけになろうとも女性は女性、変わらない一つの存在なのである。
都合の良いときだけ寄って来て、時期が終われば切り捨てる。
そんな人間には、彼女は二度とその美しい姿を見せてはくれないだろう。

私は切に思い、冒頭に書いたお客さんに言った。
「シランの花後直ぐに葉をカットしてしまう・・・そんなことしたらもうシランよ?」

・・・あ、ウソです。



パキスタキス -出会いは突然訪れる- [花]

だいたい花のことは知ったつもりになっていた。
学生の頃から学んできたものだし、何年か園芸店で働けば様々な花を見られた。
興味があるから本を読み自ら情報を仕入れていたし、自然と知識は深まっていた。
店に居ても、街を歩いていても見かける花なんて季節のもので決まりきっているし、ちょっと花に対しての刺激はマンネリ化していた。

「最初のころは見る花見る花面白くって、毎日が新鮮で楽しかったな~。」
なんて休日前の仕事終わり、馴染みのバーに飲みに行って同僚とボヤいてみたり、
「でも慣れるってことは熟練してきたってことで、それは当たり前のことで、人生なんだよな~。」
と悟ったフリしてみたりして。
「そうですね。」
マスターは微笑んで言うけど、こんな酔っ払いの若造の話何百回も聞いてきたんだろう。
何処かその笑顔は愛想笑いに近い。
こうやって他人の何気ない行動を卑屈に受け取ってしまう、自分の斜に構えた態度がまた格好悪い。

大した得るものもないまま夜は明け、二日酔い気味の朝帰り。
日が昇り始め世間はにわかに動き出しているのに私は半ば千鳥足。
別に自分が休日なのだから、その日をどうしようが自分の勝手なのだが、何故だかどこか情けない。
全く一度悲観的になると中々歯止めが効かないものである。
まだ肌寒い朝、自己嫌悪という名の上着を纏いながら、やさぐれてとぼとぼと静かな住宅街を歩く。

と、突然私の顔に水しぶきが掛かる。
「あ、ごめんなさい!」
玄関先の植物達に水やりをしていたご近所の女性の声だ。
甲高いく若々しい弾みのある声が響く。
「いえ、こちらもボーっとしてましたから・・・」
女性の方に少し顔を向けこちらも頭を下げ、また帰路を行こうと歩みを始めた矢先。
「!?」
私は突如再度彼女の方を振り向いた。

「あ・・・」
私は寝ぼけ眼を見開いた。ホースから出る水しぶきの向こう側の彼女。
今まで会ったこともないようなエキセントリックな容姿。
地面に跳ね返る水しぶきに少し濡れた姿は奇妙だが何処か艶やかで美しい。
黄色い頭に目を引くその白い飾りは何だろう。
私の鼓動は高なり、「彼女のことを知りたい」 その衝動はもはや止められない状態にまで達していた。

私は勇気を出して女性に尋ねた。
「・・・すいません」
「はい?」
「あの、名前を教えてくれませんか・・・その足元の花の名前を」
「は?」

彼女の名はパキスタキス。
中南米からやってきたキツネノマゴ科常緑花木の、異国の女性だった・・・。

(つづかない)


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