皇帝ダリア -上を向いて歩こう- [花]
ここ数日で一気に首都圏も寒くなった。
地に咲く花々ももう終わり。花を散らして葉を枯らし冬に備えて眠りかけている。
これで紅葉が終わってしまえば自然の色が乏しい冬になる。
木々や花々の色が減ると何処となく寂しい。
クリスマスイルミネーションで街自体は明るくなるものの、人口的な明るさからかこの物悲しさは拭えない。
あと年末という時期もこの感覚の呼び水になっているのかも。
あまり良い思い出が11・12月にはない。
苦しかったり悲しかったり、そんな辛い思い出ばかりをよく覚えているのは「人間の本能」と聞いたことがある。
いわゆる「マイナス」の記憶を刻み込むことで、それを再度味わうことのないように注意を喚起しているとか。
全くもって、ありがたいようでありがたくない話である。
そんなもんで自然と気が滅入る。
気が滅入るとうつむきがちになる。
うつむきがちになると目線が下がる。
目線が下がれば視野は狭まる。
典型的な悪循環の始まりだ。
春は良い。
下を向いても路傍の小花が慰めてくれる。頑張って働く小さな虫達が勇気をくれる。
温かい風が花や新緑の香りを運び、上を向こうと鼓舞してくれる。
でも冬は地面ばかり見ても全く良いことなんてない。
だからって気が滅入ったときなんかは頭を上げる気もしない。
頭を上げなきゃ前が見えない。
あのときもそうやって下を向いて道を歩いていた。
傷口に塩というか、そういうときはやっぱり悪いことが続くものだ。
「カー」とカラスの鳴き声。
「不吉な・・・」
普段は気にもかけないカラスの鳴き声が妙に響く。
そんな思いを抱いたほぼ同時に足元に落ちた白いフン。
「危なっ!」
第二派を恐れ後ろに身を翻し、鳴き声がしたであろう近くの電柱の上を「キッ」と睨む。
どうもカラスは去ったあとのようで、目線の先にはただ太い電線が何本も並んでいるだけだった。
すると視野の中の彩りに気付く。そのまま少し目線をずらすと大輪の花が咲いていた。
「皇帝ダリア」だ。
背丈は3m以上にもなり、その頂上付近に花を咲かせるキク科の宿根草だ。
春に地面から芽を出し、初冬にはこの大きさにまで育つ。
なるほど花は玉座から下々を見渡すようだ。
その威風堂々としたたたずまいから「皇帝」の名が付いたと言われる。
(ああ、そういえば11月末は皇帝ダリアの開花期だ・・・)
しばらく私はボーッとその大きな花に見とれてしまった。
(ああ、花なんてもう無いって思っていたけれど、あるところにはあるんだ)
他の時期なら決して目立つ色の花ではないが今は随分明るく見える。
いや違う。いつもはその身長に目が行っていたのだが彼女の花は事実美しいのだ。
目線を変えれば気付かぬものにも気付けるのだ。
そう彼女の薄青い花色を見ながら感慨にふけっていた。
そして気付く。
あ。いつの間にか上向いてる。
まったくカラスに感謝か皇帝ダリアに感謝だか・・・
でもまぁ、良かった。
やはり上を向いた方がこれから歩く道良いことがありそうである。
まだまだ人生も初冬に歩く道も捨てたもんじゃない。
ホトトギス -責任の所在- [花]
今でこそ気楽な自営業だが、やっぱり人と一緒に働くことは大変なものだ。
時に助けてもらえるが、時に足をひっぱられる。
でもこれはお互い様で半ば仕方ないこととも言える。
失敗するからこそ補い合うため他人と一緒に働くものだと思うのだが、これがなかなか難しい。
会社員時代、水やりのミスで「ホトトギス」を数十株枯らしてしまったことがあった。
ホトトギスは秋に咲く、質素だが美しい花。独特の花の形と模様が人気である。
ちなみに彼女のその名は、あの鳥の「ほととぎす」の模様から由来している。
枯らしたのは、お客さんの注文を受けて売場には出さず奥のバックヤードで取り置きしておいた株だった。
私は2日間会社を留守にしていたため後輩に管理を任せていたのだが、彼は水管理をミスしてしまったのようである。
まだ残暑厳しく、水やりが一日一回で済む時期ではまだない。
朝一度水やりをしたものの夕方の水やりを怠ってしまったようだ。
私は何とか新しいホトトギスを取り寄せることが出来、お客さんとのトラブルは起きなかったが、数十株の植物を管理ミスで失ったことで私と後輩は上司にこっぴどく怒られた。
私が後輩に言いたかったことも上司が言ってくれたことだし(要するに「暑い日の水やりは注意しなさい」ということ)、私から彼への注意は別にいいだろうと思っていた。
まあ今回の事件は元は私が受けた注文だし、後輩への指導ミスとも言える。いた仕方ない。
ただ後輩はどうも素直に反省していないようだった。
他の社員から聞いたのだが、怒られた後食堂で上司と私の悪口を言っていたそうである。
「なんでおれが怒られるんですか。あいつ(上司)おかしくないですか?」
「先輩の言うとおりにしただけですよ。2回とかわかりませんよ。」
「だいたいあの日はあいつ(上司)のせいで仕事詰まってたのに目ぇ行き届きませんよ」
と彼の言い分。
いやいや何というか感心した。
「自分のせい」って思わないのかな。
仮にも任された仕事。それを達成できずに私や上司に憤りを示す。
上の言うとおりにして、失敗したら「あの人のせいだ」と自分を擁護する。
気のせいか結構この手の思考回路を持っている人が多い気がする。
失敗を「上司のせい」「先輩のせい」にするのも含め、「部下のせい」「お客のせい」「恋人のせい」「政治のせい」「経済のせい」etcetc
火の無いところに煙は立たない。
責任の所在は幾らかは自分自身にもあるのではないだろうか。
ただ何でもかんでも自分の責任だと思って生きたら大変。そういう意味ではない。
反省すべき点は少なからずあるのではないだろうか、という話だ。
他人から言われた、だから自分のせいじゃない。これは絶対良くない。
他人から言われたことで失敗したとき・怒られたときでも、自分の頭で考え自分のが悪かった点を見出せる人が育っていく人間のように思う。
責任の全てを他の事象のせいにする人間の成長は、きっとこの先たかが知れたものになるだろう。
さて
それから数ヵ月後の話だが、その後輩が「彼女にふられたから」と私を飲みに誘ってきた。
話を聞くと、彼の話の内容はほぼその子の悪口。
最後に一言「なんでふられたんですかね?」
それは多分ホトトギスに聞けばわかるよ。
水やり一日2回やった?
・・・と私が言ったとか言わなかったとか。
ツワブキ -人はあだ名を何故付けられるのか- [花]
かつて私は「ツワブキ」という花の名をずっと覚えられずにいた。
何故かどうしても覚えられなかった。理由は全くわからない。
しかしある日突然覚えることが出来た。
何故か?
その話を今回は書きたいと思う。
閑話休題
貴方の子供の頃のあだ名は何だった?
飲みに行ったときの他愛も無い話題の一つじゃないだろうか。
「何そのあだ名!」「へ、どうしてそうなったの?」「あーわかるわかる!」
人によっては思い出したくない話かもしれないが、他人の人となりを知るにあたり意外と良いネタだったりする。
同時にそれを知ることで益々他人に愛着が湧いたりもする。
あだ名・愛称・ニックネームetc、これらは他者との交流にあたり結構な役割を果たす。
何故あだ名のような別称が他者に好まれるか。
私は個人的には「自分達が名付け親になる感」が生まれるからではないかと思う。
考えてみれば「中学校のときのあだ名」「高校のときのあだ名」「バイト先のあだ名」等、人生の生活ステージごとにあだ名というものはそれぞれ別に付けられている気がする。
何故あだ名がステージごとに違うのか、と言えば「その時間その場所にいる自分」に「その時間その場所を共有している仲間たち」が名前をつけているからである。
一緒に居る仲間に自分達で名を付けてあげることで、その名前を持つ人間に皆一層の愛情を注ぐのである。
ちょっと言い方は悪いかもしれないが、ペットのような感覚。
ペットは家にやってきた時点では別段何も呼称の無い「犬」という生き物。
それに家族みんなで、「ジョン」とか「タロウ」とか名づけて愛でる。
これにあだ名をつけるという行為は近いものがあるように思うのだ。
例えば山田太郎という人がいたとする。
元々ある「山田太郎」という親が付けた名前でなく、クラスというグループ内で考えられた名前で呼ぶ。
例えば「リチャード」とか!
それによって何だか地味だった山田太郎という存在もキラリと輝く人気者に化けたりする。
「おいリチャード!」
あら、何だか格好良い。気品がありそう。なんだか英国貴族の次男坊みたい。
登校は爺が運転するクラッシックカー。いつも正門前に乗り付ける。みたいな。
でも、ま、実際は「山田太郎」なんですけど。
家は地元の小中学校の制服とか体操着扱ってる20坪くらいのスポーツショップなんですけど。
3つ上の兄貴はヤンキーなんですけど。
先生に「お前の兄貴には苦労させられたぜ」とか言われたりして。
でもリチャード。
うん、帳消し。
話は逸れたが要するに、既存の誰かが付けた名前でなく、他の「愛称」のようなもので何かを呼ぶことは、その何かと親近感を生むのに大いに役立つ手段のように思う。
それほど近しくなかった友達との距離を縮めるのに役立つかもしれない。
さほど興味のなかったものに興味を持てるようになるかもしれない。
馴染みのなかった植物も身近に感じられるようになるかもしれない。
で、ツワブキもそうして愛称をつけることで私は覚えた。
ツワブキ。
ツワブキ。
ツワブキサトシ。
ツマブキサトシ。
妻夫木聡。
・・・あ!
私の中で彼女は「サトシ」である。
マリーゴールド -物事の本質- [花]
またも御無沙汰である。
しかしまぁ今回の更新を皮切りにこのブログも再開していきたいと思うので、恒常的に閲覧されている人など居ないと思うのだが、今後ともよろしくお願いしたい次第である。
そんなことを言い出すのも、やっと今年の梨の収穫が終了したためだ。
3ヶ月弱、1日の休みも無く、一般企業ならば労基法違反でアウトだろ!ぐらいの身体の酷使をしつつも、まぁこんなもんだと小さな頃からわかっているし、免疫はあったので何とか今年も無事乗り越えた。
そんな長期にわたり労働し、疲弊しきった人間が「はい、明日休み」と言われたらどうするか?
これが意外で、元気に外出していくものである(勿論人によって違うんだろうけど)。
出かけた先は日本橋界隈。
ちょっと千疋屋総本店に用があり、ついでにあのへんをプラプラしてみようと思ったのだ。
ま、得てして「ついで」が本当は楽しみにしている方だったりするわけだが。
随分畑にひっついていたので実に都内を歩くのが結構楽しい。
都内の大学に居た頃はこの雑踏が本当に嫌で嫌で仕方なかったのだが・・・(汗
「隣の芝は青い」とはまさにことこと。
離れてみれば懐かしく恋しく、近づけばまた嫌になる。いやはや勝手な性分だ。
日本橋からガス灯を辿り歩き、私が着いた先は銀座。
このへんは街の造りが秩序だっていて個人的には好きだ。
同様に感じる人も多いのか、たまたま観光客も多かったせいなのか、「街並みが綺麗ね~」などと呟いている人の声が耳に入る。
大通りに沿って、上品な大きなプランターに花が植えてあった。
同じく何処からか「この花も綺麗ね~、まさに銀座よね~」との声。
「んん?」と思う私。
どこかのご婦人が発言した「まさに銀座」の花は、なんのことはない。
キク科一年草で御馴染みの「マリーゴールド」だった。
てゆぅか、普通にご近所の商店街の花壇にも植えてあるんですけど・・・・
てゆぅか、連作障害の防除手段として野菜畑にたくさん植えられているんですけど・・・
てゆぅか、ケ●ヨーD2で1ポット¥98で売られているんですけど・・・
これが銀座ブランド効果、か?
ポピュラーな大衆花マリーゴールド女史も「まさに銀座」に化ける。
奥さん、貴方自分の家の御近所にも多分咲いていますよ。
日本一の地価を誇る場所だけあって確かに物価は高い。
果物も有名百貨店のお店では近所のスーパーの2倍3倍以上にもなる。
どこか「銀座だからなぁ」で納得してしまう。
でもしかし、「本質を見る」姿勢を忘れてはいけない。
隣の芝が青いのも良い。銀座マジックにかかって銀ブラ(死語?)も良い。それも実際楽しい。
ただ銀座だろうが自分の地元の商店街だろうが、同じものは同じ。
良いものは良く、同様に悪いものは悪い。
メディアや大多数の人間の評判や噂、そういったものに心動かされない姿勢を失ってはいないだろうか。
少なくとも「自分が重きを置いている大切な物事」に関しては、特にその姿勢を忘れてはいけないと思う。
その物事の「本質」をしっかり判断しなければいけないと思う。
そう考え、私は歩道に並んだマリーゴールドを改めて見た。
うん、マリーゴールドはここでもやっぱり変わらず綺麗だった。
メドーセージ -当たり前が一番大事- [花]
家の門の前に「メドーセージ(サルビア・グラニティカ)」という花が生えている。
濃いブルーが特徴の宿根草で毎年毎年この時期には頭を垂れるように花を咲かせている。
まるで家を発つ住人を見送るため丁寧に挨拶してくれているようだ。
その日も家の前のメドーセージは元気に咲いて出社前の私を送ってくれたが、
私の顔はちょっと難しい顔をしていた。
上司のUさんの態度がどうも好ましくないことに小さな嫌悪感を感じていたのだ。
世間には挨拶やお礼が出来ない人が意外と多くて驚くことがある。
こちらが挨拶しても無視されたりすると、すごく意味が分からない。Uさんもその一人だった。
向こうから挨拶がなかったのはまぁ仕方なかったとしても、挨拶をされて一声相手に返すだけのことが何で出来ないのかなぁ、と悲しくなる。
特にUさんは、口をすっぱくして「挨拶くらい出来ないと良い大人になれないよ!」と子供の頃私に注意していた世代の方だけに、何だか昔怒られたことって説得力がないなぁと思う。
勿論、相手がしないからこちらも挨拶しません、といった幼稚なことはしない。
でも時として「あの人感じ悪いし、しなくていいや」と思ってしまう自分もいる。
こうなると完全に相手に負の感情を抱いてしまっていることになる。
自分の顔は大抵仏頂面、何だか朝から機嫌の悪そうな顔になる。
そんなとき後輩の女の子の元気な笑顔の挨拶「おはよーございます!」
「おはよ」とこちらもあわてて笑って挨拶すると、とても嬉しそうに倍くらいの輝いた笑顔を彼女はする。
小走りで彼女はその無愛想なUさんにも挨拶する。
「おはよーございまーす!」
そのときUさんがどんな顔をして、そして挨拶を返していたかしらないが、
彼女の元気さを見ると途端に何だか「自分ってちっちゃいヤッチャなぁ~」と思った。
悪い人ばっかり見てても仕方ない。
元気で挨拶してくれる人もいるんだし、自分も彼女のようにならなくちゃと思う。
危うく自分のマイナスの感情を何の罪も無い人に向けてしまうところだった。
笑顔で挨拶やお礼をすると、時として「キミは偉いな」と言われることがある。
ごくごく自然の当たり前のことをしただけなのに。
要するに当たり前のことが出来ない人が多いから、当たり前が出来ている人が当たり前のことをしているだけなのに評価されるのだろう。
この世の中、当たり前のことが実はすごく価値のあることになっているのだ。
今日も家の前のメドーセージは元気に笑いかけてくれていた。
人間喜怒哀楽はどうしてもあって、時としてうつむき加減になる辛いこともあるが、やっぱり素直な笑顔に対して私も極力笑顔でいるようにしよう。
当たり前の笑顔に応えられるようにしよう。
ワルナスビ -インタビュー・ウィズ・ワルナスビ- [花]
【ワルナスビ(以下【ワ】)】
アタイの名はワルナスビ(悪茄子)。
何も自分で名乗ったわけじゃない。世間がそう呼ぶのさ。
-何故そう呼ばれるのか?
【ワ】
まあまずは野菜のナスの奴に似ているからだろうね。
ま、気になるのは枕の「ワル」ってとこだろ?
いいんだよ、気にすんな。謝っちゃいるが、それが面白くて聞いてんのはわかってんだ。
これがナスの花。似てるだろ?
そりゃあアタイの風貌が悪いから、かねえ。
葉は他人を寄せ付けないようギザギザになっているし、茎だってチクチクするよ。
触るもの皆傷つけた、っていうの? ギザギザハートの子守唄っていうかね。
あと体力だって相当ある。
-例えば?
【ワ】
踏み潰されても、切り刻まれても、根っこがちょっとでも残っていれば直ぐに元通りさ。
バラバラにされたって、その一つ一つがからだをつくり、増えちゃったりするよ。
そう直ぐ仲間を増やして群れるのも嫌われる理由かねえ。
ま、ヤンキーのサガってやつ?
-確かにワルナスビさんの仲間はいたるところで見かけます。
【ワ】
種も飛ばすし、根っこを広げてどんどん仲間を増やすよ。
そうやって周りの植物達が入り込めないようにしてしまうのさ。
なにせ、さわるもの皆傷つけた、からね。
-でもそれだけ勢力を増やすためには何か他にも手段があるのでは?
【ワ】
よく気付いたね。そのうえアタイはとんでもない毒を身体に仕込んでるんだ。
ソラニンっていうんだけどね。家畜が食べると場合によっては中毒死することがあるんだよ。
だから下手に手出しできない。
実も毒があってね。実は英語じゃ「悪魔のリンゴ」って言われてるんだよ。
どうだい? これがアタイさ。酷い女だろ? アハハハハ!!
-・・・話を変えたいと思います。ワルナスビさんの生い立ちについて。
【ワ】
出身はね。アメリカのカロライナ州のあたりなんだよ。
そう、こう見えてもね。アメリカ暮らし長かったんだよ。
おっと、「ノースカロライナ州」か「サウスカロライナ州」かなんて野暮なことは聞くなよ。
カロライナはカロライナ、それでいいじゃないか。
思い出すねえ・・・あのころ。
-どんな少女時代でしたか?
アメリカのころから札付きの悪なんて言われてね。
悪だ悪だってあんまりにアタイを追い出そうとするもんだから頭来てね。
どんどんどんどん世間から自分を守るように悪くなっちまったんだ。
信じられぬ大人との争いの中で、っていうの? 行儀良く真面目なんて出来やしなかったね。
夜の校舎窓ガラス壊して回ったね。
そりゃ昔はそれなりにか弱かったし、毒だって持っていなかったよ。
でも自分が生きるためには仕方なかったんだ・・・。
で、だんだんだんだん自分が安心して過ごすため、
仲間を増やし続けてこんな島国まで来ちゃったってわけ。
Welcomeようこそ日本へ、っていうの? ・・・ま、そんな感じではなかったけどね。
-そうですか・・・ワルナスビさんも色々ご苦労されたのですね。
【ワ】
苦労なんてほどでもないよ。
おう、そのアタイのこと悪茄子っていうけどね、
その悪の手助けしてるのは人間だってのも忘れちゃいけないよ。
-すいません。でもどういうことでしょうか?
【ワ】
車・船・飛行機、そういったもんが出来たからアタイもそれに便乗してここまで大きな勢力をつくっちまったんだ。世界各地に移動するあんたらにくっ付いていたらこうなっちまったんだよ。
そもそもさ、あんたらとアタイら何が大きく違うっていうんだい?
自分達の仲間をどんどん増やして、自分達の生活を豊かにするために気にいらないものは取り除いてさあ。アタイらが仲間増やして、他の植物の住みか占拠してんのと何が違うんだい??
植物の中でも言ってるやついるよ。
本当の悪(ワル)はあいつらなんじゃないか、ってね。
なあなあアンタ、そこんとこは胸に手を当ててよぉく考えなよ?
-は、はい。すいません。
【ワ】
人のふりみて何とやら、だ。
ま、どうせあんたらはアタイらは「人」じゃないからとか言うんだろうけど・・・くくく。
そういう傲慢な目線・・・嫌いじゃないけどね。
でも、奢れるものは久しからず。
昔からあんたらの歴史の中でもそういうヤツが滅んできたんじゃないのかい?
-は、はぁ。
【ワ】
おっとちょっと学のあるところ見せちまったようだね。
そりゃこの生活も長いから、色々情報ってやつも入ってくるのさ。
ほら今度の参院選は自民党がヤバいんだろ?
ま、アタイのところにもよろしく来たよ。昔の友達が比例区は公明党にって・・・・
・・・・
彼女の話は尽きない
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・wikiphedia「ワルナスビ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%93
フクシア -メモリ増設が気付かせてくれたこと- [花]
何故かヘクソカズラにトラックバックが2つも付いている今日この頃、皆様におかれましてはご多忙であろうか。
梨農家は今の時期は時間に追われるような仕事はなく、比較的ゆとりを持って仕事をしている。
そんなわけなので梅雨時には雨が降るとその日は休み、という感覚である。
御多分に漏れず、私も雨が降ったので私用を済ませることにした。
私はまず予てよりやろうと決意していたマイPCのメモリ増設をしようと思った。
既にこのPCも使って4年。色々動作も遅く不便を感じていたのだ。
起動からネット接続まで15分もかかるPCを何の対策もせず使っていたスローライフの申し子な私だが、いよいよ限界の時が来た。
ヤ●ダ電気でマイPCに適応したメモリを購入し256→512MBに。
ついでに外付けのHDDやらUSB2.0インターフェースやらも買い、PCの前で待機の少ない快適なPCライフをつくりあげようとした。
増設や諸々の設定も無事済み、おかげですこぶる動作が良くなり、生憎の雨模様の下なんだか非常に晴れやかな気分になった。
こんな作業なんて意を決すれば直ぐ済むことなのに、なかなか人というやつは億劫がってやろうとしない。
今や起動してから2分足らずでネットが出来る。
終わってみればPCの前で動作の遅さをボケーッと待っていた時間が本当に馬鹿らしいものだ。
・・・
そのとき私は気付いた。
メモリ増設と園芸の関連性に。
メモリ増設とは言わば「植え替え」である。
何年もPCを使い様々のソフトやデータを入れていけば、次第にもっと大きな動作環境が求められる。
PCが快適な動作をするためには、それに見合ったメモリを増やしていかなければならない。
これは鉢植えにした植物が大きくなるにつれて鉢が狭くなってくる状態と同じなのである。
彼女達は元は地面に生えているため、鉢内の土の容量が少ないと根の伸びが抑えされてしまい、根詰まりという状態になる。
この根詰まりが起きことで、根を伸ばせなくなった植物はからだ全体の生長が抑えられてしまうのだ。
要するに根という土台がしっかり伸び広がらなくては地上部も伴わないのである。
枝もよく伸びなければ花も咲かない、そんな植物が出来上がってしまうのである。
土の量が足りない植物。
メモリが足りないPC。
何の因果か、この目の前の無機質な箱と外にある有機質な花が一直線上に繋がった。
「はぁッ!!」
そのとき私は今年ほとんど花をつけていないフクシアがあったことを直ぐに思い出した。
気が付くと私は直ぐに部屋を飛び出し、雨降る屋外の鉢植えゾーンに向かっていた。
フクシアはわずかばかりの花を付け、そこにいた。
今は満開の時期であってもいいのに。
そうフクシアは明らかにメモリ不足だった。
私は雨に濡れながら我武者羅に土を配合し肥料を混ぜ用土をつくった。
そしてフクシアを2回りほど径の広い鉢に植え替えた。
彼女も私もびしょびしょだった。
「ありがとう」
恐らくそんなことは彼女は言っていない。
むしろ「遅いよ!」ぐらいの勢いだろう。三行半を叩きつけられても文句など絶対言えない。
「ごめんね、ごめんね!」こうなると謝るしか誠意を見せるしかない。
園芸作業に慣れ、管理を怠慢に行っていた自分がいた。
こんなに直ぐに出来てしまう作業を何処か億劫がっていた自分がいた。
メモリは私に教えてくれたようだ。
自身の惰性を。その弊害を受ける女性の存在を。
恥ずかしながら私は思わず泣いてしまった。
今日は雨が降っていて良かった。
彼女に涙を見られずに済んだ。
・・・あ、はい、泣いたのはウソです。ごめんなさい。
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・フクシア
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/fukusia.html
カラスウリ -地上の花火- [花]
7月に入り全国各地の夜祭りが催されはじめ、いよいよ夏本番といった雰囲気がしてきた。
我が家の我が部屋からも祭り独特の賑やかな囃子が聞こえてくる。
神輿、山車、出店、浴衣、太鼓・・・祭りと言えば様々な物事が連想出来るが、「祭りの夏夜を彩るものといえば?」という問を人にしたらば、まず「花火」と答えるだろう。
暗く広がる夜空を明るく彩る打ち上げ花火は実に魅力的な夏の風物詩である。
花火があんなにも愛されるのは、花火師さんの技術は勿論のことだが、根本として「夜に花が咲く」というところにあるのではないかと私は思っている。
「花は昼間咲くものだ」という世間の通念とは逆の、ちょっと異なる不思議な開花。
そのギャップがあんなにも多くの人の心を魅了し、注目を集める。
ただ、星が瞬く大空を仰ぎ一瞬の美しさに歓喜する皆の直ぐ側に、身近にも夜の花があるがあることも忘れないで欲しい。
カラスウリ
ウリ科のつる性多年草で木に巻きつき背を伸ばす植物である。
彼女が面白いのは、その花が夜だけ咲くところである。日中は蕾を硬く閉じている。
夜に外を歩くことがあったら、少し周囲に目を配りながら歩いて欲しい。
普段見慣れた道に突然いつもとは違った光景を見ることが出来るはずだ。
ただの壁や何の変哲も無い生垣が、真っ白な花々に彩られている。
彼女の花は、月の淡く柔らかい光や家屋の窓や街灯から零れる弱い光に照らされ、実に幻想的に白く輝く。
クリスマスのうるさい電飾なんかより数段美しい、天然のイルミネーションだ。
直径7~10cm程度のレース状広がったその花縁部は、花火を見ているようでもある。
夜空を大輪の花火が輝くように、地上にも夜を彩る小さな花火が直ぐ側にあった。
私達は遠くの強い光に気を取られがちだが、気に留めないだけで美しいものは身近に意外と存在しているものだ。
午後6時
午後6時40分
午後7時15分
ルリタマアザミ -ファッションと危機管理- [花]
ルリタマアザミの花の時期が近くなってきた。
このアザミは開花前にトゲの生えたボールのような真ん丸な蕾をつくる。
このトゲボールは触れば痛いのだが、何処か可愛らしい。
これが「瑠璃玉アザミ」の人気の理由でもある。
しかし、このトゲは一体何故あるのだろうか。ただのパンク野郎の花なのだろうか。
その理由は世間の女性を巡る危機管理に通ずるところも大きい。
女性の周囲には男性に比べ危険が多い。
身近なところだと、ひったくり、強盗、空き巣、ストーカーetc
悲しいことに挙げてみるとかなり多い。
どうしても女性は男性より身体的に劣るぶん、犯罪の対象になりやすいのだ。
自然界でも身体的に劣る生き物は他者からの標的にはされやすい。
虫は蛙に狙われ、蛙は鳥に狙われ、鳥は猫に狙われる。
植物も然り、他の生物に狙われるのだが、上に挙げた例とは一点大きく違うことがある。
それは、植物は「動くことが出来ない」ということだ。
残念ながら植物は、虫や微生物の食事にもなる、生物のピラミッドで言えば一番下の階層に当たるような存在である。
しかし彼女たちだって生きなければならない。
そのために自分を守る方法を各々編み出していった。
花を守るためルリタマアザミも蕾にトゲを纏い自分の子を守ったのである。
同様に果実を守るためのクリのイガ。捕食を防ぐためのトリカブトの毒。外敵が嫌うネギの臭い。
これらは植物が長年掛けて身につけた自衛のための進化といっても良い。
外敵防御手段というだけでなく「クリのイガ剥いて食べるのめんどくせ~な」と人間に思わせ、消費量が減った。
これでもある意味クリが果実を守ったことになるだろう。
人間から自分の子供である果実を守ったのだ。
クリの勝ちである。
そんな心理的効果も併せ持つ植物の自衛手段は凄いのである。
植物は自分が弱く狙われ易いということをしっかり本当的に自覚している。
こうして出来た彼女らのガードの堅さはかなりのものである。
しかし人間の女性は外観だけで見れば年々ガードが甘くなっている気がする。
何故時代を重ねるにつれ、女性ファッションは露出が高い傾向になるのだろうか。
確かに昔々と比べると可愛いし、華やかだとは思うのだが、陰湿な性犯罪も増加する中ではどうもその服装は逆行しているような気がしてならない。
胸元が大きく開いたシャツを着たり、ケツが出そうなズボンを履く露出が高い女性。
時々ローライズのジーンズをグイッと上に引っ張り上げてやりたくなる
(やってしまうと確実に変態なのでやりませんが(汗))。
適度ならば良いが明らかに「やりすぎ」の方もいらっしゃる。
流石に「十二単を着ろ」とは言わないが、目を覆いたくなるような過度なファッションは如何なものだろうか。
老婆心ながら非常にその身が心配である。
機会があればアザミさんと護身についてゆっくり対談をしてもらいたいものだ。
図1:「アンタ、そんな格好じゃ野郎が付け上がっちまうよ!」と言いたげなルリタマアザミ女史
セロジネ&ラフレシア -自分の名前への愛着ありますか?- [花]
生まれてから自分という人間をあらわす「名前」を持つ以上、その名前には得も知れぬ愛着がある。
一見大したことないようにも思える他人からの「自分の名前の呼び間違い」だが、間違えた呼んでしまった人は呼ばれた人から結構嫌な顔され、その気分を害するようだ。
私は結構ありふれた名前なので名前を間違えられたことはほとんどない。
そのため不快な気持ちはよくわからなかったのだが、名前を間違えることは失礼という一般常識的理解はしていた。
時は昔。園芸店勤務時代。
いつものように店内を歩いていると、いつもようにお客さんに声を掛けられた。
客「あの~、ビオレあります?」
私「はい?」
客「ビオレですよ、小花でキレイな・・・」
勿論ビオレママになれるアレではない。
ここは植物を扱う場所なのだから。
ほとんどの人が察することが出来たろうが、お客さん曰く「ビオレ」とはスミレ科一年草「ビオラ」のことである。
お花に興味を持って来店される人も色々いらっしゃり、かなりアバウトな情報を持って店員に質問される方も多い。
お相手をさせてもらう方としてはちょっとした推測力もいる仕事ではある。
サファニア→サフィニア
オナミエシ→オミナエシ
など可愛い間違いが多く、植物の特徴を詳しく尋ねてみれば簡単に解ける謎ではある。
しかし時としてとんでもない謎を持ち込んでくる人もいる。
あれも今頃。蒸し暑い時期。日傘をさした品の良いご婦人に話しかけられた。
客「すいませんラフレシアください。」
私「はいラフレシア・・・ええっ!!?」
●ラフレシア
http://www.bbec.sabah.gov.my/japanese/nature/Raflesia.htm
植物に詳しくなくてもご存知の方は多いだろうが、「ラフレシア」とは東南アジア島とマレー半島に生息する植物。
完全寄生性で他の植物の根に根を張り、そこから養分を吸収して生きる。
花粉の運び屋としてハエを使うため、花からは強烈な腐肉臭を発しているという。
そして何より特徴的なのはその大きさで花の直径は1m以上もあり、とにかくでかい。
常識的に考えて園芸店で扱うなどあり得ない植物だ。
何かと間違えているのだろうが、ラフレシアと間違う植物って何だ???
私「あのー・・・どんな植物でしょう?」
客「あら御存知なくて? こちら見てみなさいな。」
私「どきどき・・・」
客「このページの。ね、ラフレシア。」
そのご婦人は栽培書とは異なる植物の写真集のようなものを開いた。
確かに彼女の示したところは熱帯の植物のページで、そこの真ん中にラフレシアは掲載されていた。
間違えていないのか? 素で言っているのか?
私「もうしわけありませんが、日本ではラフレシアは扱っていませんよ。」
客「え、だって以前こちらで拝見しましたよ。」
私「ええっ!!?」
強烈な腐肉臭のする寄生性の1m以上もある巨大な花を売ってる園芸店ってどんな店だろうか??
ここで少々お待ち下さいといって、先輩従業員に「すいません昔ラフレシアって売ってたんですか?」と聞いたら確実に私が変な人扱いである。
この問題は、私が課せられたここで必ず解決しなければならない問題であると瞬時に理解した。
私は再度確認のため、ラフレシアを指差し尋ねた。
私「お客様、この花でよろしいんですよね??」
客「え、違いますよ。」
私「は?」
そのご婦人が静かに指差した先にはランの仲間「セロジネ」が。
どうやら同じ密林に咲く花のページにあったセロジネの表記を勘違いして「ラフレシア」などとおっしゃっていたらしい。
客「ふふふ、こんなジャングルに咲く大きな花お店で売っているわけないでしょう?」
品良く嘲笑されてしまい、何だか非常に腑に落ちない思いをしてしまった。
常連のお客様だったため、以降そのお客さんの私の呼び名は「ラフレシアの店員さん」。
「ねえ今日はラフレシアの店員さんいないの?」と他従業員に聞いたりして・・・はあ。
「ねえナシエンさんってラフレシアなの?」と他従業員に笑いながら質問されたり。
・・・正しい名前で呼ばれないことは辛いものだと身に染みて理解できたのだった。