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トウモロコシ -頑張れ男の子- [野菜]

近所のスーパーの野菜売場に夏野菜がたくさん並んでいる。
高校生くらいだろうか、売り子の女の子が試食品を配りながら、可愛らしい声を出しPRを行っている。
元気な笑顔と声に老若男女皆が集まる。
面白いものでこういう売り子さんは女性の方が人気があるものだ。
横ではひな壇に立って男子高生風男子も売り子をしていたのだが・・・どうも人の集まりが違うのは仕方ないところか。

スーパーも夏野菜販売に力を入れるように、我が家の畑の夏野菜も旬の時期に入ってきた。
お店で馴染みの顔も自宅でつくれば美味しさもひとしおだ。

家庭菜園の最大の利点はやはり収穫時期が自分で決められ、一番美味しい時期のものを食べられるところ。
スーパーに並ぶものの多くは、産地からの輸送と市場を経由する過程があるため、どうしても鮮度が落ちてしまう。
食べられるギリギリまで成らせておき、夜間に養分がぎっしり詰められた朝取り収穫野菜には勝てない。
「自分でつくった」、その達成感という名のスパイスがまたその野菜を美味くする。
現実的な栄養価から見ても、心理的な作用から見ても取れたて野菜はやっぱり美味しいのである。

この時期の畑を見渡すと楽しいのは様々な収穫物の結果と、色とりどりの野菜の花があるところのようにも思う。
普段は食べるものばかり見ている人間としては彼女らが見せる別の顔もまた嬉しい。

野菜もだいたい皆「はなっ♪」という花を咲かせてはいるのだが、なんだか異質な花が咲く野菜がある。

その花に馴染みがあるかは知らないが、御存知トウモロコシである。
イネ科の野菜であることからわかるように、どことなく稲穂に似ている。

が、実はトウモロコシの花はこれだけではない。

私たちが食べるトウモロコシの実の頭についている「毛」。
実はこれも「花」なのである。

そうトウモロコシは男子の花「雄花」と女子の花「雌花」が一つの株に存在する植物なのだ。
この毛が上の稲穂みたいな部分から降る花粉をキャッチして、あのトウモロコシの実を成らすのだ。
しかもあの毛一本一本がトウモロコシの実の一粒一粒と繋がっているというから驚きだ。

トウモロコシにおいては花の時点では女子は目立たない存在だった。
「花」というと人間でも植物でも女性的な印象が強いものではあるが、男性もあんなてっぺんで目立つところで頑張っていたのである。

しかし目立つところにいても実は全然目立っていない・・・
そんなところが男子が美しさの形容方法として用いられない理由なのかもしれない、と切に思った。

頑張れ男の子!


図1:美味しく戴いております・・・


ハクサイ -白菜その愛- [野菜]

我々の商売は生活必需品を扱っているわけではない。
嗜好的性格が強く、その需要は人々の生活水準に大きく作用される弾力性の高い商売だ。
かといってアルコールやニコチンのような強い依存性のあるものでは決してない。

そのはずだ。

或る日。その日は千葉に大雨洪水波浪警報が発令されていた。
外は横殴りの雨。
傘は開いた途端に強風に煽られ骨が折れる。
満足に歩行すらできない。

そうなると園芸店というものは完全に客足が遠のき、開店休業みたいな状態になる。
それはそうだ。まず来ようと誰しもが思わないであろう。それに店は簡易的な屋根があるとはいえ屋外に商品陳列をしているのだから、売場は半分雨風にさらされているようなものだ。
来たとしても買い物できる状況ではない。

そのはずだ。

だがそれでも何故かお客さんは来る。
こんな日に何の植物が欲しいというのだろうか。
私はどうせ暇だし世間話でもする感覚で来店したお客さんに聞いてやろうと思った。

そして彼女は来た。
片手にもう既に風によって破壊された傘を持った女性。
頭に巻いた手ぬぐい。
彼女の腰はくの字に折れ、足元は風を受け完全にふらついている。
そう彼女は老婆だ。

私は恐らく喜寿を迎えているだろうその女性を止めようとした。
「危ない。外の売場は危険です。」と。
何せ風でゴミや商品等等様々なものが飛び交っているような状態だ。
万一チューリップの球根が飛んできて頭に直撃したら致命傷になり兼ねない。
かなり危ない。

だが私は声を掛けることが出来なかった。
彼女はゆっくりながらも一歩一歩しかと前を見据えて進んでいたからだ。
迷いのないその眼の先に何があるか、私は気になっていた。

かくして牛歩とも言えるその歩みを私は遠目で追い、やがて老婆は屋根の内完全な屋外へと出た。そして一つの売場に止まった。

「何か手に持った」 

そのアクションをキャッチした私は激しい風雨の中を彼女とは対照的に全速力で走りぬけた。
二人の距離が5mほどになったとき、彼女はもうお目当てのものを片手に持ちレジに動いていた。

「何だ何だったんだ!?」 

私は目も満足に開けられない状態でありながらも確認することに必死だった。

「・・・あ、あれは!?」

はくさい苗 6株入り ¥210

私はその場で力尽きた。遠のく意識の中老婆は会計を済まし店を去っていった。

彼女は何を思い、あの日に白菜を買ったのか。
あの日でならなければいけなかった理由。それは私は考えた。

きっとあの人は農家で、昔亡くなった爺さんと交際時よく二人で畑をつくっていたのだ。
やがて九月下旬白菜苗の定植の頃、爺さんは婆さんにプロポーズした。
それが50年前のあの日だったのだ。
以来二人はあの日あの畑に白菜を植えるようになった。
それは5年前爺さんが亡くなってからも止めることはなかったという。
例えどんなに体調が悪かろうと、天気が悪かろうと・・・。

たかが白菜されど白菜。
ものの価値はその外観や機能によって決まるものではない。
人の中にある「想い」。
これが小さなものをも大きく。瑣末なものを財宝にだって変える。
人の価値基準とはそういうものだ。

そして私はこの文章を書いていて思った。

「この記事なんなんだろう?」・・・と。


ラッカセイ -大人の階段- [野菜]

幼年期に疑問に思っていたことが大人になってから
「あ、こういうことだったのか」
と、やっと理解することが人間しばしばあるだろう。

どうして太陽は、雲は空に浮いているのか。
なんで空から雨が降ってくるのか。
一体近所のお兄さんの部屋にある裸の女の人がたくさん載っている本は何なんだろうか。

それを知ることが大人になることではないのだが、子供の頃というのはある疑問が理解できると何だか成長したような感覚にはなるものである。

私も例外なくそんな疑問を多く抱えた少年時代を過ごしていたと記憶している。

そんな私の疑問の一つが、今の季節くらいになると近くの畑にそびえ立つ「塚」のことだった。

上の画像のように幾つか立つ。
いつ出来たのかわからないが、気付くといつの間にか出来ている。
ミステリーサークルに次ぐ新しい宇宙人の仕業?、とすら考えた。

まあ何のことはない、ご存知の方からすれば下らない話なのだが。
これは「落花生」を「乾燥」させているのである。
つまりこの塚の正体は「落花生の塊」なのだ。

意味がよくわからないという方もいらっしゃるだろう。
実際私も初めてその答えを耳にしたとき理解できずに大人になってしまったからだ。

あれは、落花生の地下部、つまり豆が付いた部分を内側にして、株全体を積み上げていったものなのだ。
上に乗っかっているワラは雨水を防ぐ傘と考えればいい。
そしてあの状態で秋~冬を越し、豆をゆっくりと乾燥させる。
それがまた落花生の甘味を増す効果もあるという。

「ほほう」
と、納得した青年期。
そして更に青年ならではの疑問も生じるのが常。

「あれ、しかし落花生って豆が根っこに付くのか? 花は地上部に咲いているよな??」
そして青年はラッカセイという魔性に魅かれる。

大人は
「地下に花が潜るんだぜ」
と言う。
馬鹿にしてる。
何も知らないと思って、やっと最近裸の女の人の本の件が解決したばかりの「お子ちゃま」と思って嘘を吐いているのだ。
大人はいつも子供の疑問をそうやって嘲笑している感がある。

我らが食する「豆」は種子で、種子は花器から由来することくらいは当時の私でも理科で学んでいた。
確かにラッカセイの「花」は地上にあるのだ。
目立たないが事実存在する。

だからといって花が地下に潜るというのは荒唐無稽も甚だしい。
根本的に「豆がある部分が地下部」という段階で大人たちの子供を欺く「嘘」はスタートしている。
そういう結論に行き着きそうになりさえした。

だがしかし、私は毎日畑の落花生を見にいった結果、驚くべきことに花後、かつてその花であった部分は花茎を伸ばし地面に潜り始めたのである。
驚嘆だ。

ようやっと少年期~青年期の疑問が解決した瞬間である。
同時に意味も無く大人に抱いていた反骨心が削がれた瞬間でもある。
真の意味での大人の階段を登った気がした。
単純な疑問→回答を知ることだけでなく、そこから更に回答→考察をするのが大人の思考だと。
自分の理解の範疇外のイレギュラーを検証することも楽しみ。

イレギュラーがあるからこそ人生も植物も女性も楽しいのだ。


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